北野武『首』

新作として見る初めての北野武作品だったものでだいぶ浮かれて臨んだ『首』(2023年)について。

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音楽の響く白画面に首の字が現れると、その字の首にあたりそうな部分が切り落とされてフレームの下へ消える。背景説明に続いて水辺の死体が映り、次のショットでは首から上のない死体を蟹が這う様子が大写しになる。「首」を名乗るこの映画では首の消失や欠如のほうが主題であることが冒頭から明かされている。

再び文字で説明が与えられ、今度は男たちが勢いをつけて押す丸太が画面を塗り替える。数回ぶつけると太い棒は門を突き破り、男のみの世界における姦通を象徴的に導入する。

 

映画の最後のショットでは、たけし=北野武=秀吉が「首なんてどうだっていいんだよ」と言い放って生首を蹴り飛ばす。西島秀俊明智光秀のものということにされているこの首も、題字以来の数々の生首と同様に画面の外へ落ちていく。首にこだわる者どもと首に頓着しないたけし=秀吉を対比する意図らしいが、「首」と題した映画を作家自らがどうでもよいと断じて締める余裕というか、その驚異的な適当さに感嘆してしまう。

アウトレイジ』(2010年)と『首』の違いとは、ともにビートたけしの台詞である「関口の野郎…」と「信長の野郎…こんちきしょう!」の違いである、と強弁してみる*1。たまたま直前に見たから比べているだけだが、文脈をゼロからスマートに作り出す必要のあった前者に対し、後者では役名のスーパーインポーズで人物の行く末が了解されるので*2、「こんちきしょう!」の部分で勝負をするしかない。「バカヤロー。なあ?」と数十年来の決め台詞に同意を求めてしまうビートたけし、台詞を噛んだまま本編にぶち込まれた浅野忠信、お椀のショット1つで済む事情をフラッシュバックまで動員して説明する冗長なまでの丁寧さなど、「どうだっていいんだよ」と切り捨てられるべくあらゆる細部が積み上げられていく。

厳格さや緊張の脱臼という意味では集団戦闘場面も同じである。合戦の冒頭では左右逆を向いた両陣営が別々に切り取られるが、ひとたび入り乱れて戦い始めると切り返しが抑制される。音声的持続に一応支えられたショットのあいだに脈絡はなく*3、基本的に名のない兵士たちが戦い、殺される瞬間が羅列される。

一方、名のある少数の人物の会話は細かい単独ショットを並べて示されることが多い。ここまで同じ2種類のカットを繰り返し往復する北野作品は初めてではないか*4。ただし加瀬亮織田信長が登場すると繋ぎ間違いが誘発され、往復する編集も選ばれにくくなる。

 

加瀬=信長のいないほとんどの場面において、たけし=秀吉は足を引きずる浅野忠信黒田官兵衛と弟の大森南朋羽柴秀長の2人を従えている。浅野=官兵衛は遠藤憲一荒木村重のせいで脚を悪くしたらしく、象徴のうえで去勢されたのを杖で代用して生き延びている。血を分けた大森=秀長とのあいだにも近親相姦を禁じる圧力がはたらいていることにすれば、たけし=秀吉自身は両脇をホモセクシュアリティからの防御で固めていることになる。

『首』は史実を同性愛排除のシステムとして再編成する。作中で男どうしの性的接触をした人物はことごとく明示的に殺され*5、していない主要人物だけが生き残る。システムに淘汰されたホモセクシュアルになりかわるのは当然それを排したホモソーシャルであり、前述のとおり身辺をあらかじめホモソーシャルで固めていたたけし=秀吉、それに醜い女への嗜好を戦略的にさらけ出した小林薫徳川家康が天下を手にするだろう。

 

ホーキング青山=多羅尾光源坊のくだりにとにかくはまってしまった。しゃべれるのになぜか発話の途中から両脇の白狐による吹き替えが重なり、わざわざ分割画面や変な音声効果まで発動して意思疎通をしている。意味の分からなさが最高である。そのわりに黙って殺され、3人の死に様も複数のショットでやたらと丁寧に示される。北野武は今度再び浅野忠信を起用して「バカバカしい映画」を作るらしく*6、フィルモグラフィにようやく追いつけたのでたくさん作ってほしい。

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*1:あとはビートたけしの生きる意志も明らかに違う。「アウトレイジ」シリーズのたけしは銃で脅されるたびに半ば懇願するように「やってみろ、この野郎」とすごむが、最後に自ら引き金を引く瞬間までお預けを食らい続ける。『首』のたけしは端ない世界に毒づきながらも生きる気満々である。

*2:大して日本史に通じていないカンヌの観客には、中高年男性の荒れ模様と死体の量産が見えただけだったのではないか。海外タイトルも不親切な Kubi である。

*3:たとえば『首』の宣伝でよく言及されている黒澤明の『七人の侍』(1954年)――ほぼ同じ時代を舞台としている――であれば、矢を放つ者と矢に突き刺されて落馬する者の切り返しがアクションの大きな部分を占める。

*4:大スクリーンで見るクロースアップの圧力に押されただけかもしれないが、先行上映で見たアキ・カウリスマキ『枯れ葉』(2023年)も同様の往復による会話が多かった気がする。青に赤をぶつけるのも一緒である。

*5:荒木村重本能寺の変のあとも生き延びたらしいが、いくつもの生首と同様にわざわざ画面の下=崖の下へ落とされる遠藤=村重には、死と同等の排除が働いたと見てよい。なお副島淳=弥助だけが例外かもしれないが、マッサージなら許容されるということか。

*6:22分20秒あたり