以下は英語圏のホラー雑誌 Rue Morgue 掲載のインタビュー記事 "Andrew Robinson Looks Back At His Days As The Scorpio Killer - Rue Morgue(アンドリュー・ロビンソンがスコーピオ・キラーを演じた日々を振り返る)" の私訳である。出典を記すことを条件に翻訳公開の許可を得ている。映画作品には監督名と公開年を付したほか、何か所か改行を追加した。
2021年12月10日(火)
聞き手:マシュー・ヘイズ
アンドリュー・ロビンソンが『ダーティハリー』(ドン・シーゲル監督、1971年)のスコーピオを演じ、あらゆる人を恐怖に陥れてから半世紀が経つ。スコーピオは、サンフランシスコ市民を餌食にするゾディアック・キラー風の連続殺人犯の役である。当時ニューヨークに拠点を置く新進気鋭の舞台俳優だったロビンソンが配役されたのは、そのヒッピー風の雰囲気が一因であり、彼は長い髪と前衛的な実験劇場のオーラをまとっていた。
ロビンソンはまったく忘れがたい演技で銀幕史上もっとも卓越した殺人狂の1人を演じ、クリント・イーストウッド扮する “ダーティ” ハリー・キャラハンと対峙した。どちらの役も、それぞれに息を吹き込んだ俳優の人生を永久に変えることになった。イーストウッドの名前はしょっちゅう耳にされるようになり、彼はのちにいくつかの続編に主演した。一方のロビンソンは、予期しない形でその役に規定されてしまった。枠に完全に押し込められたのである。ロビンソンはその状況に失望し、変質者的でない新鮮な役を見つけるべく復帰するまで、何年か演技を離れていた。ファンは彼を『ヘル・レイザー』(クライヴ・バーカー監督、1987年)のラリー・コットン役や、繰り返し演じた『スター・トレック:ディープ・スペース・ナイン』(1993〜99年)のエリム・ガラック役として記憶するだろう。この25年間、ロビンソンはUSCで演技を教えている。
先日、Rue Morgue はロビンソンに再会し、彼のキャリアと人生に消えない跡を残した役について振り返ってもらった。
どのようにこの役に決まったのですか?
ドン・シーゲルの息子のクリス・タボリとは仕事で一緒になったことがありました。ニューヨークに来たドンが「ニューヨークでいちばんすぐれた若い俳優は誰だ」と尋ねると、クリスは「アンドリュー・ロビンソン」と言ってくれたのです。おかげで顔合わせが行われましたが、おそらく15分ほどでとても短かったため、それ以上何も起こるわけがないと思っていました。
すると数週間後、当時出演していた演劇の舞台にちょうど上がろうとしていたとき、舞台監督が楽屋に下りてきて、クリント・イーストウッドが客席にいると私たちに伝えました。この演劇はオフ・ブロードウェイのドストエフスキー小説の翻案だったので、クリント・イーストウッドが見物に現れるとは考えにくいものでした。私にはなぜ彼が来たかが分かりました。
彼が客席にいると分かって演じるのは緊張したのではないですか。
演じるときは集中できます。本当に集中しているので、私は公演初日も気になりません。ビームが頭上に落ちてきたりでもしない限り、何も私を止めることはありません。その晩の私の演技は明らかに上出来でしたが、休憩時間に舞台監督から、クリントが第1幕のあとで帰ったと聞きました。再び私はそれっきりだと思ったのですが、2週間後にはサンフランシスコにいました。
あなたが演じたスコーピオ・キラーは、明らかにゾディアック・キラーをもとにしています。役を演じる前はどのようなリサーチをしたのですか?
正直に言って、あまりしませんでした。ゾディアック・キラーについては、彼が残していた暗号のメモ以外に知られていることがあまりに少なかったからです。私がしたリサーチは、フィルム・ノワールをたくさん見ることだけでした。『死の接吻』(ヘンリー・ハサウェイ監督、1947年)で変質者に扮したリチャード・ウィドマークの演技には、子どものときに甚大な影響を受けました。
私が役を演じ始めるときにすることの1つは、伝記の執筆です。スコーピオについてはいくらかヒントをもらっていましたが、ドンは私が作中人物として履いていた軍靴*1をくれました。その軍靴は、平和のシンボルをかたどった私のベルトの留め金とともにうまく影響を与えてくれました。この男はベトナムで戦っていたと想像したのです。
ベトナムは私にとって重要でした。そこへ行くべく召集を受けて、カナダへ去る準備をしたことがあったからです。[ベトナムへ]行く気はなかったため、鞄に荷物を詰めていました。そのとき、自分は第二次世界大戦で戦死した人――私の父がそうです――の残した唯一の子にあたることが分かり、私は徴兵を免除されました。そういう経緯で、この作中人物もベトナムでの従軍後は完全に錯乱するだろうと考えたのです。
『ダーティハリー』を見ると印象的なのは、クリント・イーストウッドの演技とあなたの演技に現れるスタイル上の緊迫感です。彼はいつも通り彼のやり方で演じており、非常にミニマリスト的です。彼は目を細くする表情だけで多くを表現できます。他方であなたは、完全に度を越えたような演技をしています。演技のスタイルにおけるこの対比は、制作中に話題に上りましたか?
そのことはまったく意識にありませんでした。あなたが言うように、クリントはクリントです。彼には彼とカメラとの関係があり、ミニマリスト的で派手なことをしません。彼は禁欲主義的なのです。顔立ちのよい若者だったことも損にはならなかったでしょう。ドンがニューヨークの若い舞台俳優を求めていたのはそういう理由だと思います(私はダウンタウンの舞台俳優で長髪だったので)。私たちが互いを引き立て合うようにすることは、初めからドンの考えだったのだと思います。
頭のおかしい人を演じるのはとても難しいことです。その境地に達しなければいけないのです。俳優が観客に目配せをしているうちはうまくいくわけがありません。ドンはその境地に達するよう私を促してくれました。それはとても創造的な経験でした。映画業界で得た中ではもっとも創造的な経験です。残念なのは、映画にかかわる経験はすべてそういう感じなのだろうと思ってしまったことです。実際はその逆だとすぐに学ばされました。ドンは私のしていることを見ていて、思いついたアイディアを聞いてくれました。私が思いついたアイディアはほぼすべて採用してくれました。
あなたが思いついたことはたとえば何ですか?
私はフィジカル・シアターの仕事に深く携わっていました。フィジカル・シアターとはとりわけイェジー・グロトフスキの教えですが、当時アメリカに到来しつつあり、現在も私がUSCで教えているものです。それは演技に対してとても身体的なアプローチを取ります。
『ダーティハリー』に出たころの私は身体的に人生で最高の状態だったので、あらゆる演技がとても身体的です。スタジアムの場面では、彼に撃たれて私がひっくり返るところで、倒れる動作を自分でやろうと提案しました。最後の採石場を駆けめぐる追跡場面では、ドンと撮影監督[訳注:ブルース・サーティース]と私で追跡の現場を歩いて回り、私はできることをいくつも提案しました。たとえば、ベルトコンベアに乗ろうと言いました。手すりを滑り降りるのもやりたかったのですが、本当に棘だらけだったので、ドンが衣装部に頼んで仕立てさせ、棘が刺さらないようズボンの下に革を身につけました。最後の場面では、ドンがスタント・ダブルを飛行機で呼んでいましたが、撃たれて甲板から飛んで池に落ちるくらいはできる気がしたので、スタントを自分でやりました。
同作は表現方法において現代でもとてもリアルに見えます。偉大な犯罪映画です。
少し前に大きなスクリーンで作品を見ました。まだまったく古びていないと感じます。ブルース・サーティースによる撮影も、ラロ・シフリンの音楽もです。あの音楽は際立ってすぐれています。スコーピオに合わせて彼の作曲した音楽が素晴らしく、この映画の半分は音楽だと思います。
あなたのキャラクターは散々に殴られるうえ、バスごと子どもたちを人質に取り、そのうちの1人を殴る場面さえあります。撮影がもっとも大変だったのはどの場面ですか?
最悪に大変だったのがまさにその2つです。お見事! 私をぶちのめす男を演じたのは優しい俳優で、あの場面の撮影は彼にとって何よりつらい時間でした。彼はとても取り乱していました。カメラが私に大きく寄っているときは、スタント・コーディネーターが代わりに入っていました。
スクールバスのことは本当に酷でした。あの可愛らしいスクールバスでは、缶詰の中にいてゴールデン・ゲート・ブリッジを往復しているような感じでした。でもドンは、「子どもたちを怖がらせられていない。怖がらせないとこの場面はうまくいかない」と言いました。それから私が叫んだりあの歌を歌ったりすると、子どもたちは本当に怖がり始め、1人は泣き出してしまいました。あの子どもたちがどうやって選ばれたのかは分かりませんが、学校が1日休みになったと思っていたのに、実際はこの過酷な場面の撮影だったという事情だと思います。
あの子どもたちは、何をしに来ているのかを分かっていなかったということですか?
みんな元気にしているとよいのですが。精神科の請求書に追われていないことを願います。
連絡を取り合ってはいないのですか?
[笑って]私はもっとも会いたくない人物だと思いますよ。
映画は公開されると一瞬で大評判になりました。若い俳優にとっては高揚を覚える出来事だっただろうと思います。それはあなたにとってどんな瞬間でしたか?
至福の時でした。公開前に映画を初めて見たとき、見ながら「信じられない!」と思っていました。演技に誇りを感じたからです。私は有頂天になっていました。自分の演技についていつもこういう気持ちになるわけではないのですが、この映画ではそうでした。
私が思い至らなかったのは、それが多くの人に恐怖を与えたということでした。私に仕事を与える気にならなくなるほどの強い恐怖を、人々は感じたのです。ドンが次の作品に出演させてくれるまでの1年間は仕事がありませんでした。このことに私は困惑し、悩まされました。
そのすべてを物語る瞬間がありました。ワーナー・ブラザーズのあるキャスティング・エージェントと会う約束をしていたときのことです。彼女は私の名前をあの映画と結びつけてはいませんでしたが、彼女のオフィスへの通路を歩いている私を見て、私が誰なのかに気づきました。そこで彼女は秘書に、言い訳をでっち上げて約束をキャンセルするように言ったのです。何年も後でそのキャスティング・ディレクターはこの話を聞かせてくれました。秘書に約束を取り消すよう頼んだのは、単に私に会いたくなかったからだそうです。そのような状態が数年続きました。映画でキャリアを築くことになるものとしばらく思っていたのにそうはならなかったので、多少は打ちのめされました。
その役を引き受けたことを後悔したことがあるかどうか、お聞きするつもりでした。
大いにあります。業界をやめてロサンジェルスを去り、山間部の小さな町に住んで違う仕事をしていた時期がありました。私はしばらくスコーピオに酷似した役しかオファーをもらっていませんでした。もう終わりだと思い、遠くへ去ったのです。それはとても賢明な決断でした。約5年間は完全に現場から離れて過ごし、ついに私にとってのスコーピオの時代もバックミラーに映る過去の出来事になりました。
ファンに言われたもっとも奇妙なことは何ですか?
殺害予告がいくつかありました。ひどいこともたくさんありました。たとえば、妻が電話を取って殺害予告を受けたこともあり、電話帳にない番号を入手しないといけなくなりました。ある男は記者になりすましてインタビューをしたいと言ってきて、ウィリアム・モリス[訳注:ハリウッドのタレント事務所]のオフィスの1つで会うことにしたのは幸運だったのですが、すぐに何かがおかしいと感じました。彼は完全に正気を失っており、スコーピオになるのはどういう感じだったかを知りたがったので、私はすぐに立ち去りました。私に近づいてマグナムを構えるふりをし、クリントが私を撃つ前に言っていた口上をひと通りやる男は何人もいました。
これらのせいで、演じることは時に無垢な仕事ではないのだと確信しました。実際、色々と異なる人々を惹きつけてしまうことがあるのです。その波が落ち着いて、私が前に進めるようになるには、しばらく時間がかかりました。
それでも、あなたはこの映画を作った経験をとてもポジティブな出来事として話しています。
映画の制作自体は素晴らしく、スリルに満ちていました。作っているのは昔ながらのハリウッドの人々で、ほとんどが保守派でした。3テイク目を撮ることはありませんでした。経済的な映画制作ですが、とても見事に行われていました。私たちは50年を経た現在もまだこの映画について語っています。この映画は西部劇、刑事もの、ホラーなどいくつかのジャンルの組み合わせであり、アメリカ映画の神髄なのです。
『ダーティハリー』については、多くの批評家が警察による暴力や拷問を賛美するファシスト的映画と非難していたことも言及しなければいけません。制作時にはこの映画の右翼的な傾向について考えていましたか?
考えていませんでした。私は急進左翼なので、おかしな話です。私が悩ましく思ったのは、映画が公開されてしばらくして起こった事件でした。『ダーティハリー』ごっこをしていた2人の子どもの1人が父親の銃を持っていて、一方が他方を殺してしまったのです。その話を聞いたときは本当に深く動揺しました。暴力について、私たちに何が言えるでしょう? 人口の2倍近い数の銃があるアメリカの人間として、何を言うべきかを知るのは難しいことです。
面白いのは、1本目の映画の持っていた私刑支持のメッセージの多くを、最初の続編『ダーティハリー2』(テッド・ポスト監督、1974年)が否定していることです。
そしてその続編は本物らしく感じられませんでした。ポーリーン・ケイル[訳注:映画批評家]にファシズム賛美と見なされたことで悩んでいたのは分かります。少し前言を翻そうとしていたのです。たしかに『ダーティハリー』は映画の暗い面を表現していますが、結局はただの映画にすぎません。
ステュアート・ローゼンバーグとオーディションで一緒になり、私のオーディション中に彼と口論になりました。彼は本物の左翼で、単刀直入に「あなたはどうしてあんな映画が作れるのか」と聞いてきました。私は「本気かよ。私は俳優だ。第三帝国を支持する映画に出たわけでもないのに」と言いました。「こんなやつはどうでもいい」と思っていましたが、私の反論に感謝した彼が役をくれたので、『新・動く標的』(スチュアート・ローゼンバーグ監督、1975年)という映画でポール・ニューマンと共演しました。
『ダーティハリー』の制作で、ほかに印象的だった思い出はありますか?
映画の結末で警察バッジをどうするかについて、ドンとクリントが激しく言い争っていました。スコーピオは息絶えて池に浮かんでいます。ハリーはバッジを取って投げ捨てるのか、という問題がありました*2。ドンや私は投げ捨てなければいけないと思っていました。彼は外れ値であり、私刑を下した人間だからです。彼は正義や名誉について異なる規則に生きる男です。法律の外へ踏み出してしまったわけです。ドンが勝ってとても嬉しく思いました。
クリントはバッジをポケットに戻したがっていたということですか?
ええ。彼は反論して、「法と秩序の男なのに、どうしてバッジを投げ捨てるのか」と言っていました。
あの終え方は『真昼の決闘』(フレッド・ジンネマン監督、1952年)の最後への目配せだと思っていました。あの映画でも主人公[訳注:ゲイリー・クーパー演じる保安官のウィル・ケイン]が同じことをするからです。
たぶんその通りですが、大きな論争の種になっていました。ドンの考えが通ってとても嬉しかったです。
No.0006