オリベル・ラシェ『シラート』または音の視覚化

オリベル・ラシェ『シラート』(2025年)は去年の東京国際映画祭で見た(タイトルは「Sirāt(原題)」と記されていた)。当時のメモを手がかりにこの映画について書いてみる。

映画はスピーカーの大写しで始まる。いや、スピーカーだというのは後から分かることで、とりあえず黒い直方体がいくつも見え、男たちの手によってトラックから降ろされ、砂漠の真ん中に設置される。人が集まり音楽が鳴り出すが、映像の中のスピーカーから流れている音のようには聞こえない。スピーカー自体が不動であることに加え、ショットが切り替わっても音の聞こえが変わらないせいで、むしろ映像から切り離された音が映画館のスピーカーに直接提供されているようである。音楽は代わりに、踊る集団の身体を通じて間接的に画面をうねらせている。

行方不明の娘を探しているという父親とその息子がいる。彼らはレイヴを渡り歩く一団に同行を決め、映画はロード・ムーヴィーの様相を呈する。ある晩(晩だったと思う)、スピーカーを修理する坊主頭の人物と例の父親が車内で会話を交わすのだが、このとき音が目に見える震えとして画面に定着される。唸るような低音が聞こえるのと同時に、修理の済んだスピーカー表面の振動がはっきりと映されるのだ。映画の冒頭とは対照的に、音響はより直接的な視覚化を達成し、待ち望んだ視聴覚の同期に快感すら覚える。

例の息子を乗せて停まっていた自動車が不意に後ろ向きに滑り始め、崖の下へと消えてしまう。絶望的な衝撃音が何度か響き、のちに息子の死亡が確認されたことが報告されるが、自動車や人体の成れの果てが画面に見せられることはない。視界から消し去られ、音と化した息子。

残された一行は砂漠にスピーカーを設置し、体を揺らし始める。大写しのスピーカーの表面に震えは見て取れない。と、人が凄まじい音を立てて爆発する。地雷原に足を踏み入れたようなのだ。ここへ来て音の視覚化は極限的なしかたで発露する。煙塵と爆音との完全な同期を映画に供するのと引き換えに、人は灰色の塊と化してごろりと転がる。

大概のホラー映画はケタケタ笑いながら見るのだが、この映画の終盤はもうやめてくれと身を固くしてしまった。人々が踊り狂うレイヴ映画、再会を目指す家族のメロドラマ、自動車でさまようロード・ムーヴィー、唐突に襲い来るスリラー、作中人物と一緒に身を固くして次の襲撃を待つホラー。ジャンルの雑食的な流用が功を奏した例だと思う。が、何より映像と音響が同期してほしいというこちらの願いを聞き届け、最も暴力的なしかたで突き返してくるような展開に呆気にとられた。

(No.0026)

成瀬巳喜男『山の音』または「ほんとうの声」の秘匿(前篇)

成瀬巳喜男監督、水木洋子脚本、下永尚録音による映画『山の音』(1954年)の最終盤、新宿御苑の場面において、山村聰は原節子に向かって以下の台詞を口にする。信吾は山村の、菊子は原の役名である。

信吾「さっき電話で、菊子の明るい声をきいて、ほっとした〔…〕あれが、菊子の声なんだね。菊子のほんとうの声はあれなんだね」*1

「ほんとうの声」とは何か。作中の文脈でいえば、直前の場面で山村聰が電話越しに聞いたとされる原節子の声のことである。そこでは会社の重役室で電話を受ける山村だけが映し出され、原のほうは見えも聞こえもしていない。電話中の二者を交互に映し出すことも多い成瀬映画だが、『山の音』は原の「ほんとうの声」をわれわれから遠ざけている。

代わりに『山の音』で耳にされる原節子の声は、同時代の他の映画におけるそれとは違った質を帯びているように聞こえる。たとえば『東京物語』(小津安二郎監督、1953年)や『驟雨』(成瀬巳喜男監督、1956年)などと比べて、もっさりとした特徴的な奥行きを欠き、不自然に高音ばかりが響いている印象を受けるのだ*2。『山の音』では、原の「ほんとうの声」を全編にわたって秘匿する音響上の操作が加えられているのではないか。

川端康成による原作『山の音』は、そのタイトルからして音響的な工夫を要請している。映画『山の音』は第一に、原作や脚本にあった「山の音」への言及を排除し、それらしい音を聞かせることも差し控えるという選択でこの要請に応じる。同時に、その不在の周辺には、山村聰が原節子に「御ズレ」と「緒ズレ」を続けて発音させるくだり*3や長岡輝子のいびき(と鼻をつまんでそれを一時停止させる山村)、原による猫の鳴き真似、「ひどく風邪をひいたよう」で「エロチック」な声の愛人など、音声をめぐる挿話が多く配されている。夫の上原謙に「子供」と揶揄される菊子を33歳の原節子が演じる同作において、その声をあえて高く響かせることは、他の繊細な主題や演出の配置と整合性があるといえる。

この仮説を確かめるべく、まずは原作にない「ほんとうの声」という主題が脚本に導入された経緯(の一端)を調査した。

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水木洋子の直筆による脚本の第一稿が、市川市文学ミュージアムに所蔵されている。その最終場面に「先刻の元気な電話の声をきいて、これが菊子の声だと思った」*4という信吾の台詞はあるが、「ほんとうの声」という文言は見られない。

最終稿とのより決定的な違いは、それに先立つ電話の場面にある。電話の向こうの原節子の台詞が、「Filter」という指示――電話を通したように声をくぐもらせる効果を指すのだろう――とともに明記されているのである。そのやり取りの冒頭を書き取った。

信吾「あ、もしもし、‥‥菊子?」
菊子の声「(Filter)はい。、お父様?(と元気な声)」*5

第一稿の時点で、水木洋子は電話のやり取りをすべて聞かせ、「Filter」越しの声だけを「元気な声」と位置づけることを想定していた*6。つまり、撮影稿に至る改稿の過程で、「ほんとうの声」に台詞で言及し、かつその声は観客に聞かせない、という互いに連動する変更が加えられたことになる。その経緯や改稿途中の脚本は調べられていないが、ここには成瀬巳喜男を筆頭に演出方針を決める何者かの介入があったと考えたい衝動に駆られる。原節子の声をめぐる仮説が、間接的に裏づけられうるからだ。

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続いて調査すべきは、『山の音』の原節子の声が与える甲高さの印象の原因である。録音・整音段階の意匠である*7と示したいところだが、当時の音響技術(というか音響技術全般)にまったく通じておらず、原の発声の使い分け、フィルムの保管やディジタル化の過程で生じた技術的不備、あるいは単なる聞き違いといった可能性も排除できない。いつになるかは分からないが、この点が解明できたら後篇を書くつもりでいる(誰かが先に、あるいは一緒に解明してくれるならそれも歓迎したい)。

成瀬巳喜男は初のトーキー監督作『乙女ごころ三人姉妹』(1935年)におけるナラタージュに始まり*8、遺作『乱れ雲』(1967年)における映像に同期しない音声の多用に至るまで、物語映画の枠内で映画の音声を不断の実験にさらした人物でもある。中には高峰秀子がバスガイドらしい発声を目指して自らの声を矯正してゆく『秀子の車掌さん』(1941年)という中編もあるほか、特異な位置づけのナレイションも多くの作品で用いている。題にも台詞にも音声への言及がある『山の音』の生成過程に迫ることができれば、成瀬のフィルモグラフィをたどり直す有効な足がかりになると思う。

(No.0025)

*1:水木洋子「シナリオ 山の音」『キネマ旬報』1953年12月上旬号、120ページ。

*2:ただし、『めし』(成瀬巳喜男監督、1951年)には場面によって原節子の声が『山の音』と同程度に高く薄く聞こえるところもある。また、これらは配信やDVDで視聴して受けた印象であり、フィルム上映で比較をしたことはまだないことも書き添えておく。

*3:阿部嘉昭はこれを「強制によって原という楽器を原自身に「演奏」させ」るやり取りと形容した。『成瀬巳喜男:映画の女性性』河出書房新社、2005年、179ページ。

*4:水木洋子「山の音/第一稿(原稿)」の「278 287」と記されたページ。「元気な」という部分は行間にあとから書き足されている。原稿用紙は200字詰めで、各ページの上部に藤本真澄の独立プロ「FUJIMOTO PRODUCTION」の名前があしらわれていた。字は青かった。

*5:「第一稿(原稿)」の「268 277」と記されたページ。「(と元気な声)」の部分もあとから書き足されていた。「あ」の1文字の削除も「元気な声」の加筆とセットで行われたのだろう。また、「(Filter)」の部分は縦書きの原稿用紙の1マスの左右にはみ出すように横書きで書かれており、「l」は大文字のようにも見える。

*6:同じく市川市文学ミュージアム所蔵の「〔山の音〕/(構想メモ)」には、水木洋子が原作から拾い上げた音声にまつわる要素がいくつも書き留められていた。「イビキ=山の音」「菊子の◯〔嬌?〕声(女から菊子に押しよせるもの)」「信吾、会社――英子と、女の話(美人・声エロチック)」等々。ちなみに「構想メモ」の原稿用紙には「映画は大映」のロゴがあしらわれていた。『あにいもうと』(成瀬巳喜男監督、1953年)の執筆に使った残りだろうか。

*7:評価された具体的な理由は未確認だが、録音の下永尚は『山の音』の仕事で日本映画技術録音賞や東南アジア映画祭録音賞を受けている。

*8:「實はナラタージュで狡く逃げてんです」という成瀬巳喜男の発言もある。「『乙女ごころ三人姉妹』合評」『映画之友』第13巻第4号、1935年4月、79ページ。

リチャード・リンクレイター『ブルームーン』は「ブルームーン」を映さない

Sounds like you're writing my obituary.(あなたは私の追悼文をみたいに

リチャード・リンクレイター『ブルームーン』(2025年、日本語字幕は齋藤敦子)は「ブルームーン」を映さない。といっても、2つのOの字を一部重ね合わせた “BLUE MOON” の題字は2度表示されるし、同名曲のクレディットも画面を流れていくので、あくまで月そのものが映らないという意味である*1。他方、音声の次元では、ロレンツ・ハート作詞、リチャード・ロジャーズ作曲による1934年の曲の題名や歌詞の一部として、“blue moon” の2語8文字はたびたび口にされている。曲と無関係に月そのものに触れた台詞はマーガレット・クウォーリーが言う「切って落とした指の爪の一片のような月」(a fingernail clipping of a moon)という表現*2のみであり、その細さの描写によって「ブルームーン」(青く見える満月)からは距離が取られている。

実体と文字と音声のあいだの隔離状態は、映画のプロローグにあたる冒頭の数分で早くも呈示される。タイトルに続き、2つの文が順に画面に現れる。オスカー・ハマースタイン2世によれば「彼は活発で動的で、近くにいると楽しかった」が、メイベル・マーサーによれば「彼は私が知る限り最も悲しい男だった」。互いに矛盾するようにも思われる*3内容のこれらの書き言葉に続き、雨の夜道を歩く人物の後ろ姿が画面に映る(作中で数えるほどしかない主人公のフル・ショット)。正面に回ったカメラは、道端に倒れてあられもなく罵倒語を口にする彼の姿を捉えつつ、後ずさりながら浮遊する。ここでロレンツ・ハートの死去とその作詞家としての功績を伝える音声が流れるのだが、その内容が文字や映像と直ちに1つの像を結ぶ印象は得られない。

こうした緊張関係は、映画の主人公が作詞家であることと親和的である。月でもマーガレット・クウォーリーでもよいが、創作の着想源としての実体があるとする。それらに触発されて紡がれた言葉は、実体とのあいだに意味上の関係を取り結ぶだけでなく、言葉としての即物的な余剰*4を獲得する。語数や字数や字形を伴う文字、あるいは特定の響きや照応関係を形作る音声といった姿を纏い出すのだ。「ブルームーン」は歌の一部として口にされ、あるいは文字にされ、月そのものからは切り離れたままに映画の中を流通する*5

ロレンツ・ハートの詞の革新性は、サイモン・デラニーの演じるオスカー・ハマースタイン2世によるなら、話し言葉の歌詞化、あるいは歌詞の話し言葉化を達成したことにあった(「あなたはアメリカの歌をついにアメリカの話し言葉(American speech)のような響きにした」*6)。同様に、というかその代わりに、『ブルームーン』の話し言葉にはたびたび書き言葉が侵入してくる。イーサン・ホークは『オクラホマ!』という新作舞台の題に含まれる感嘆符(exclamation point)をたびたび問題にし、「感嘆符の必要を感じるようなタイトルとは関わらないほうがいい」とまで言い放つ(リンクレイターは『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』(2016年)という感嘆符を2つも冠した映画を作っている)。また、マーガレット・クウォーリーに対して「酔った」(drunk)という語を斜体にする(italicize)よう提案するくだりもあるが、これは「お母さんにこう言いなさい」というような話し言葉の次元での無茶な要求――「斜体で言え」――である。終盤でクウォーリーが口にする決定的な “not that way” のひと言――(あなたを愛しているけれど)そういうしかたの愛ではない――は、かつてのホークが別の女性にも言われ、その3語10文字(three little words, ten little letters)をあらかじめ数え上げていた表現だった。

冒頭に引いた1文(斜体は引用者による)は、階段の踊り場でイーサン・ホークがアンドルー・スコットに言う台詞である。「君は私の最も古い友人だ」「君はユニークだ」などと言うスコットをあしらうような文脈だが、ここでは「書いている」という文字の次元の動作が「聞こえる」という音声に短絡させられている。冒頭で示された追悼文(obituary)と追悼演説(eulogy)のあいだの距離が、話し言葉の次元で埋め合わされているともいえるだろう*7

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リンクレイターにとって、書き言葉と話し言葉のあいだの往還はかねてからの関心事である。たとえば、『ブルームーン』より6年ほど前の1937年を舞台にし、ロジャーズ&ハートの曲を序盤のレコード店の場面で使ってもいた『僕と彼女とオーソン・ウェルズ』(2008年)では、ウィリアム・シェイクスピアの書いた戯曲『ジュリアス・シーザー』の上演が主題となっている。ブルータス役と演出を兼ねるオースン・ウェルズをクリスチャン・マッケイが演じている――役(ウェルズ)も役の役(ブルータス)も同質の演技で通しているのが面白い――のだが、ザック・エフロンが台本の表現をわずかに言い換えると、マッケイはシェイクスピアの書いた通りに演じるようにと指示を出す。クレア・デインズの役名(Sonja)の綴りが複数回言及されていたり、マッケイが独自の記号で台本に書き込んだ演奏者への指示がうまく伝わらないという挿話があったりと、『ブルームーン』との関連が多く指摘できる映画である。ほかにも近作でいえば、『バーナデット ママは行方不明』(2019年)のケイト・ブランチットは音声入力のために(『ブルームーン』のイーサン・ホークと同じく)感嘆符や疑問符(question mark)を声に出していたし、『ヒットマン』(2023年)の終盤にはグレン・パウェルが入力したスマートフォン画面上の指示をアドリア・アルホナが読み、その演出通りに演技を披露する場面もあった。

誰かの思考や経験が言葉となること、そして書かれた文字が受肉されることは、映画制作の根幹に関わる主題である。実話を踏まえていたり演じる人との共同作業で書かれていたりする脚本を、適切な演出と演技によって具体化する、というプロセスを、リンクレイターは映画の題材として頻繁に取り込む。これは、「ビフォア」三部作(1995年〜2013年)をそれぞれ10年弱の間隔を空けて発表し、『6才のボクが、大人になるまで』(2014年)を十数年間にわたって撮影し、イーサン・ホークの加齢(円熟?)を待つためだったという10年超の準備期間を経て『ブルームーン』を作ったような、俳優の経年変化への関心とも地続きのはずである。

日本では7月に公開されるリンクレイターのもう1つの新作『ヌーヴェルヴァーグ』(2025年)は、ジャン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』(1960年)の撮影現場が舞台である。ヌーヴェル・ヴァーグによって「という関係が転倒させられ、という新たな関係が打ち立てられた」*8のだとすれば、ヌーヴェル・ヴァーグ的なシナリオの不在と、伝記映画の前提をなす実際の人物や出来事(シナリオ)への従属とのあいだで板挟みにされた状態が、『ヌーヴェルヴァーグ』のスタート地点となるだろう。その試みがどのような映画に結実しているか、(成否を問わず)非常に楽しみにしている。

(No.0024)

*1:翻訳字幕における「ブルームーン」や「月」といった文字(列)はカウントしないことにする。

*2:齋藤敦子による字幕はこれを「整えた爪のような月」というような訳――少しだけ欠けた丸という意味のつもりだろう――を当てていたが、誤りである。ほかに「90」と言っているのを「99」と訳していたところもあり、手抜き以外の説明を思いつけずにいる。

*3:イーサン・ホークは、相容れない要素を併せ持つ人物としてのロレンツ・ハートについて、下の動画の9分台で以下のように語っている。

彼はどの部屋にいても最も小さい人だったし、同時にどの部屋にいても最も大きい人でもあった。彼は最も勇敢だったし、同時に最も神経質で不安を抱えていた。彼はゲイであり、同時に1人の女性に恋焦がれてもいた。彼は矛盾(contradictions)でいっぱいだった。彼に関するあらゆる物事が複雑で、それがこの役を演じることをある種とてもスリリングにしていた。

後述する文字と音声のあいだの引き裂かれも、この「矛盾」のリストに含めるべきかもしれない。

*4:『ブルームーン』の言葉が帯びる余剰には多義性や駄洒落のたぐいもあり、そのうちいくつかは遊戯的な自己言及である。作中で言及される「ショット」は第一にショット・グラスに注がれたウィスキーを意味するが、それを「視覚的な詩」(visual poem)と評して飲まずに眺める前半のイーサン・ホークは悪戯っぽい目配せを映画に向けている。また、ホークが画面奥のパトリック・ケネディをカウンターの隣席に誘う台詞 “Join me for a shot?” は、くどいほどに逐語訳をすれば「1つのショットのために私に加わらないかい?」のようになる。誘いに応じたケネディがこちらへやって来ることで、横並びの2人を捉えた「1つのショット」が晴れて実現する。さらに、リチャード・ロジャーズのニックネイムである「ディック」が男性器という意味も持つことは作中でも話題にされているが、同じファースト・ネイムを持つリンクレイターの自虐のようでもある(リンクレイターの愛称は「リック」らしいが)。

*5:「ブルームーン」の歌詞は、各4行からなるブロックを4種類並べた形式をしている。行末に現れるのべ16の単語のうち、前後2行以内の末尾と韻を踏まないのは2語だけであり、1つは “blue moon” の “moon”、もう1つはロレンツ・ハートのファミリー・ネイムと同音の “heart” である。月とハートの孤独な共鳴が音の並びに織り込まれている。

*6:イーサン・ホークは「やめてくれ。追悼演説は嫌いだ、特に自分宛のは」(Stop. I dislike eulogies, especially my own.)と応じる。

*7:詞(文字?)を書くオスカー・ハマースタイン2世に褒められたときには追悼演説と呼んで嫌がり(注6)、曲(音声?)を与えるリチャード・ロジャーズの場合は追悼文と呼んであしらう、という逆転が起きている。

*8:廣瀬純『美味しい料理の哲学』河出書房、2005年、63ページ。

ホン・サンス、「水」の二部作:『水の中で』『スユチョン/小川のほとりで』

ホン・サンスの長編第29作『水の中で』(2023年)と第32作『スユチョン/小川のほとりで*1』(2024年)は「水」の二部作を構成する(日本語字幕はどちらも根本理恵)。それぞれの原題が「水」を意味する文字で始まる*2ことに加え、両作の語る内容や映像・音響の構成も「水」に絡めた読解を要請している。

フィルモグラフィを見れば明らかなように、水の縁語をタイトルに含むホン・サンス映画はこの2作が初めてではない。初長編『豚が井戸に落ちた日』(1996年)の「井戸」*3を皮切りに、第2作『カンウォンドのチカラ 강원도의 힘』(1998年)や第23作『川沿いのホテル 강변호텔』(2018年)の「강(江)」、第7作『浜辺の女 해변의 여인』(2006年)や第19作『夜の浜辺でひとり 밤의 해변에서 혼자』(2017年)の「해변(海辺)」といった先例があるからだ。だが、『豚が井戸に落ちた日』に井戸は(豚も)登場しないし、『カンウォンドのチカラ』の場合の「江」の字はカンウォンド(江原道)という地名の一部に過ぎず、残りの3作についても映画の舞台となる空間の説明として容易に理解ができる*4。他方、『水の中で』と『スユチョン』は「水」そのものを冠し、前者は水中という並大抵でない舞台設定を、後者は「水踰川」と表記できる架空の川の名前を題としている。以下では、この「水」の活躍ぶりをそれぞれの映画に即して見てみたいと思う。

*5

『水の中で』の前半に、水中を泳ぐ魚を見下ろしたショットがある。大半のショットでフォーカスが主要な被写体から外れている同作にあって、このショットの魚が水面の揺らぎによってぼやけて見えるのか、あるいはそもそもフォーカスが合っていないのかは判然としない*6。「水の中で」とは、揺らめく水面を隔てたような本作の視界の謂でもあるだろう。

減退させられた視界は、このショットに先立つ場面で端的に前景化する。3人の若者が道端に咲く1輪の黄色い花*7を話題にするが、ピンボケの画面はぼんやりと黄色が見える気もするという程度以上の知覚を許さないのだ。ここで、聞こえるものが見えないという事態が導入される*8

より純粋に声としてのみ現れるものを、『水の中で』は「幽霊」*9と呼ぶ。合宿中の3人が食事を取っていると、キム・スンユンは前の晩に「しっかりしろ」という罵声が聞こえたと語り始める。主演のシン・ソクホが見た夢の中での出来事をホン・サンスが脚本に取り入れたという*10が、これは気まぐれに採用された挿話ではなく、出どころが不明のまま響く声という主題に与するものと考えるべきである。続く場面でキム・スンユンはハ・ソングクとぼやけた画面の奥へ歩きながらこの声を話題にし、その主を「幽霊」と名付ける(「幽霊には勝てません」)。小さくなっていく2人の後ろ姿も声のみの「幽霊」に近づきつつある。

『水の中で』における最大の「幽霊」は、(制作やスティル撮影を兼任しながら)声でのみ出演するキム・ミニである。まずは電話越しの声として、かつて共作した曲を制作中の短編映画に使うことをシン・ソクホに許可する。映画の最後にはその曲がスマートフォンで再生され、歌声がギターや波の音に重なる。キム・ミニはどちらの場合も特定しがたい異質な時空間から声を響かせ、主人公を「水の中」へと後押ししている。

「スユチョン」が字幕で「水踰川」と表記されるのは、撮影地の近くに水踰(スユ)という駅が実在するかららしい*11。「水ヲ踰(こ)エル川」と書き下せば「水」の二部作の展開を宣言する――『水の中で』を「踰エル」――ものとも読めるかもしれないが、この架空の名前を与えられた川の岸に腰掛け、小ぶりなスケッチブックに筆を走らせるキム・ミニの姿で『スユチョン』は始まる。

『水の中で』の「幽霊」が、ここでは大学で教えるテキスタイル作家を演じている。彼女は川の水紋を着想源とした「フローイング ウォーター」シリーズの制作を「上流へ遡っていく」ように進めており、漢江、中浪川に次いで「スユチョン」の準備作業に着手している*12。映画の最終盤、鰻の店の前の小川が「大学の前の水踰川(スユチョン)まで続いてる」と聞いたキム・ミニは、「スユチョン」のさらに上流を探るべくフレイム外へと出かけていく。

すべてのショットがディープ・フォーカスで撮られている『スユチョン』にも、声の出どころの捉えがたさが問題化される場面がある。学祭に向けた練習で舞台に上がった4人のうち、客席に背を向ける格好で座るよう指示された学生が「後ろ向きで顔が見えません」と不平を述べるのだ。演出を担うクォン・ヘヒョは「舞台を行き来するから」と応じるが、公演本番と思しき場面に「行き来」は見られない。その後の打ち上げの席のキム・ミニも同様に場面を通じて後ろ姿を見せており、声の発生源が隠されている。

声の出どころの視認を妨げる別の仕掛けとして、夜の屋外の暗闇が挙げられる。キム・ミニと学生たちが校庭で語らう場面、また木々のもとで最大6人が立ち話をする中盤の場面を包む闇は、ホン・サンス映画では見たことがないたぐいのものである。

さらに、画面外から声が聞こえ、その出どころがカメラのパンによって遅れて画面に回収される、というショット構成もたびたび見られる。たとえば序盤の講義室ではクォン・ヘヒョに質問をする学生が、中盤の作業室では訪問中のクォン・ヘヒョが、パンにより遅れて画面に示されていた。流れてくる川を上流へ遡るように、聞こえてくる声をその源へたどるカメラの運動。ホン・サンスにおける水とは音のことではないか、との見立ても誘う。

『スユチョン』の最終ショットは、無人の川辺を映したパンアップで始まる。画面外からキム・ミニを呼ぶクォン・ヘヒョの声――1つ前のショットから鳴き続けている犬や鳥と同様、もはや声の主として画面に映ることはない――が割れ気味に響き、奥からキム・ミニが現れる。その出現を大喜びで迎えるようなズームイン。岩の転がる地面をバランスを取りつつ歩いてくるキム・ミニが、探索の成果を報告する――「何もありません」。フリーズフレイムにより映像がキム・ミニとともに動きを止め、音の流れだけを残して映画は終わる。

『水の中で』の最後で、自身の監督作品に主演するシン・ソクホは海の奥へ歩みを進め、ぼやけた画面の揺らぎの狭間に消失する。巨大な水塊と一体になった彼は、「幽霊」としての――あるいは凍結された一瞬としての――キム・ミニに合流するとともに、「何もない」地点に到達したのだろう。

(No.0023)

*1:原題を音訳した「スユチョン」は2023年の東京フィルメックスでのタイトル、英題 “By the Stream” に倣って付けられた「小川のほとりで」は2025年の劇場公開時のタイトルである。以下では前者を用いる。

*2:『水の中で』の原題は “물안에서” であり、「물」は朝鮮語の固有語で水を意味する。「スユチョン(수유천)」の「ス(수)」は「水」の字の朝鮮語読みである。

*3:「井戸」は朝鮮語で「우물」であり、水を意味する「물」の字が使われる。

*4:ただし、デニス・リムが指摘する通り、『夜の浜辺でひとり』に「夜の浜辺」の場面はないため、このタイトルも一筋縄ではいかない。Dennis Lim. Tale of Cinema. Fireflies Press, 2022. Page 43. 同書の概要は以下にまとめた。

*5:『水の中で』ベルリン国際映画祭のウェブサイトより。https://www.berlinale.de/en/2023/programme/202313780.html

*6:このショットの局所的に陽光がきらめく瞬間(画像)は忘れがたく、『映画館の恋』(2006年)の映画内映画の最終ショットにおいて絶好のタイミングで雲に隠れた太陽を思い出させる。

*7:映画の後半には群生する黄色い花のショットがあり、目を覚ますシン・ソクホの直前に配置されている。その後シン・ソクホは短編映画の構想を具体化させていくから、夢に見た花が着想源として機能したとの解釈も許される。

ホン・サンスは『Small Flower』(2022年)という短編において、ややフォーカスの外れた黄色い花に3つの格言を聞き取ってみせている。

*8:須藤健太郎は「ピンボケであることに美学的にも主題的にも整合性が与えられているのは、たぶん(…)ラストショットだけだと思う」と書いているが、以上で取り上げた「水の中」のショットや黄色い花のロング・ショットをカウントに入れてもよいはずである。一昨年の『WALK UP』(2022年)評と合わせて必読のホン・サンス論だと思う。「究極の映画、さらにその先へ:ホン・サンス『水の中で』」『かみのたね』フィルムアート社、2026年2月。

*9:以下、台詞からの引用は採録シナリオに基づく。「『水の中で』採録シナリオ」古木凌採録、『月刊ホン・サンス』Vol.3、60~73ページ。また、「『小川のほとりで』採録シナリオ」古木凌採録、『月刊ホン・サンス』Vol.2、68~97ページ。

*10:シン・ソクホ、月永理絵「シン・ソクホ インタビュー:ホン・サンス監督との作業は本当に楽しいんです」『月刊ホン・サンス』Vol.3、21ページ。

なお、別のインタヴュー記事では「しっかりしろ」という台詞がシン・ソクホ本人の寝言だったとされており、微妙に食い違う描写がそのままに併存するホン・サンス的な事態が起きている(どちらかの翻訳ミスだと思う)。シン・ソクホ、荒井南、浅井美咲「『水の中で』シン・ソクホインタビュー 「思いもよらないことを信じ、委ねる」」NOBODY編集部。 https://www.nobodymag.com/journal/archives/2026/0111_2244.php

*11:齋藤有希「『小川のほとりで』ロケ地紹介」『月刊ホン・サンス』Vol.2、50ページ。

*12:ここでの関心からは外れるが、同じ水の1つの流れが3つの別々の名前と作品を生むことは、3股をかけた1人の男(ハ・ソングク)が各瞬間にはそれぞれの相手との関係を真剣に考えていたらしいという『スユチョン』の挿話と重なる。たびたび浮気を描いてきたホン・サンスによる浮気心の擁護論といったところか。

Dennis Lim, Tale of Cinema: 『映画館の恋』を中心にホン・サンスを論じたモノグラフ

Dennis Lim, Tale of Cinema (Fireflies Press, 2022) を読んだ。『映画館の恋』(2005年)の英題を書名とし、同作を軸に『小説家の映画』(2022年)までのホン・サンスの全貌を手際よく整理した小ぶりなモノグラフである。ホン・サンスに関する日本語文献は対象作品の限られた短評や感想ばかりが増えている印象があり*1(それはそれで意味はあるだろうが)、同書の翻訳が出たら有意義なベイスラインになると思う。どこかが出せるなら安く訳してもいいという気でいるので、簡単に概要を書き留めてみる。

著者のデニス・リムはニューヨーク映画祭の芸術監督であり、登壇するスターたちよりおしゃれだということで『GQ』誌にインタヴュー記事が出ていたりする。前著にデイヴィッド・リンチについてのモノグラフ David Lynch: The Man From Another Place (Amazon Publishing/New Harvest, 2015) がある*2ほか、リンカーン・センターでホン・サンスの聞き手もたびたび務めており、たとえば『あなたの顔の前で』(2021年)上映後のトーク映像は下で見られる。

Tale of Cinema のウェブページには濱口竜介イザベル・ユペール、マティアス・ピニェイロが推薦文を寄せている(前二者の言葉は原書の裏表紙にも載っている)。濱口竜介のものはだいたい以下のような意味になる。

30本に及ぶホン・サンス作品の全貌を論じるにあたり、デニス・リムはそのうち1本に焦点を当てることに決めた。リムはホンの仕事を愛し、熟知しており、彼が選んだ1本の映画はほかの全作品を映し出す水晶だ。ホンのマルティヴァース*3への最良の入口がここにある。

同書は2000年代の各年から1作品ずつを論じる “The Decadent Editions” シリーズの1冊として出版された*4。だが濱口竜介が素描する通り、デニス・リムは『映画館の恋』の作品分析に主眼を置く代わりに、むしろ同作をホン・サンスの膨張し続けるフィルモグラフィに立ち向かうための戦略的な立脚点と位置づける。ホン・サンスが自分でプロデュースした最初の映画であること、ズームとヴォイスオーヴァーを初めて使った映画であること、セックス描写を含む最後の映画であることなど、『映画館の恋』に注目すべき理由はいくつか示される。何しろ本のタイトルが「映画の話」になるわけで収まりもいい。

「本書で私は、ある種のホン流の実験を試みている」(47ページ)――著者がそう序盤で宣言するように、Tale of Cinema ホン・サンス的な構成を採用している。『映画館の恋』を主に取り上げた6章(i〜vi)とホン・サンス作品を縦横無尽に論じた5章(1〜5)が交互に現れるのだ。各章に題はないが、それぞれの切り口をやや乱暴にまとめてみる。

  • i 映画館を出ること
  • 1 類似と反復、ホン・サンスを論じること
  • ii 気まずさ
  • 2 マイナー映画、ブレッソン
  • iii 食卓
  • 3 セザンヌ、ズーム、制作手法
  • iv ホテル、セックス
  • 4 複数の世界
  • v 死
  • 5 自伝(風)映画、ジェンダー
  • vi ヴォイスオーヴァー、終わりは始まり

デニス・リムの書きぶりは終始軽快だが、ホン・サンス作品の語りの構造から描写の細部まで、またホン・サンス自身の発言から国内外の批評まで、幅広い目配りが行き届いているように見える(研究動向等に通じていないため確たることはいえないが)。このコンパクトな作家論は、一貫した論証の果てに強固な結論に至るタイプのものではない。同書の美点は膨大な作品群から響き合う要素を拾い上げていく手捌きにあり、上で「有意義なベイスライン」と書いてみたのもその意味においてである。著者にいわせれば、強固な結論ほど非‐ホン・サンス的なものはないということになるだろう――「ホンはわれわれの手をすり抜け続けていくと思う。彼の仕事が早いからというだけではなく、彼が反復と変奏を使うからというだけでもない。彼の映画を評価する際に、われわれが弁証法の片側を他方に比べて強調してしまいがちだからだ」(47〜48ページ)。

著者によるものではない難点を挙げるとすれば、刊行後の3年半でホン・サンスのフィルモグラフィが増大しすぎたことかもしれない。Tale of Cinema が取り上げるのは『小説家の映画』までの30本(短編を除けば27本)だが、ホン・サンスはその後も形式・内容ともに恐ろしく野心的な作品を次々と制作し、すでに発表済みの6本に加えて7本目も撮影を終えているらしい*5ホン・サンスに置いていかれる批評の宿命を自覚して書かれた本であるとはいえ、もし翻訳を出すなら近作にも言及した前書き(「0」の章?)を新たにもらうか、適任者に長めの解説執筆を頼んだほうが、「ホンのマルティヴァースへの最良の入口」としての間口や耐用年数が増すと思う。あと題名索引は必ずほしい。

(No.0022)

*1:ホン・サンスの多作ぶりに批評が追いつかず、毎回似たようなレヴューが量産される傾向は、デニス・リムも指摘している(41〜42ページ)。

*2:ウェブ上で抜粋が読める。

*3:リンカーン・センターでデニス・リムがキュレイションを務めた2022年のレトロスペクティヴが「ホン・サンス・マルティヴァース」というタイトルだった。

*4:出版社のFireflies Pressはベルリンを拠点に映画関連の本や雑誌を出しているようだ。シリーズ(未完)ではほかにもそれぞれ異なる著者が蔡明亮の『楽日』(2003年)やデイヴィッド・リンチの『インランド・エンパイア』(2006年)などを取り上げている。

*5:ホン・サンスは編集を1日で終えるそう(100ページ)だから、とっくに仕上げて次の準備も始めているのだろう――「キャリアの現段階にあって、ホンは人が歯医者でクリーニングを予約するように映画撮影の予定を入れている」(35ページ)。

三宅唱『旅と日々』・廣瀬純「トンネル地理学」・青山真治「映画の地理学」

繰り返すが、私にとってはトンネルは映画そのものである。――青山真治*1

映画はトンネルだ。映画は窓か鏡か、扉か覆いか、巻物か織物か、巣穴か洞窟かという古くからの問いに三宅唱監督最新作はそう答える。――廣瀬純*2

三宅唱『旅と日々』(2025年)の批評において、廣瀬純は同作から「トンネル地理学」なる科学を引き出し、「連続性のただなかで飛躍を産出する」画面設計を仔細に論じている。映画における「トンネル」と「地理学」の語のこの交差は、まさに「映画の地理学」と題された連載でトンネルを論じた青山真治の文章を思い出させる。

青山真治が『10+1』誌上で1999年9月から2001年10月まで8回にわたって執筆した同連載*3のうち、トンネルが主題とされたのは2000年3月発表の「2 交通について」においてである。記事は国会図書館のデジタル化資料送信サービスで閲覧できるほか、『われ映画を発見せり』(青土社、2001年)の終盤にも再録されている*4

この回をレオス・カラックス『ポーラX』(1999年)のトンネルの話題から書き起こす青山真治は、自らの監督作品に頻出するトンネルを「専ら人物が通過することで物語の結節点となるような舞台装置として」*5位置づけ、『冷たい血』(1997年)までの各作品のトンネルの選択に触れたうえで、以下のように続けている。

これ〔『冷たい血』〕を最後に、現在まで私は意識的にトンネルを環境として用いるのをやめた。そのようなあり方は古典の方法と大差ないからである。そして映画こそがトンネルであると考え始めたからである。今、私はそのようにして映画を作っている。たとえば走る車のフロントグラス越しに前方を撮影するのも、暗闇で映画を見ることがトンネルを潜るリアルな体験となるための方法としてある。*6

トンネルそのものを映さずとも、ショットごとの構成によって映画自体がトンネルとなりうるとする青山真治の立場は、廣瀬純を経由した三宅唱のそれと響き合う。より正確には、三宅唱の『旅と日々』に青山真治作品との共鳴を見て取った廣瀬純が、両者を結び合わせるべく「トンネル地理学」を打ち立てたというのが近いかもしれない。実際、車のフロントグラスは『旅と日々』の序盤でも両側から写し取られ、反射/透過する光とともに画面に収まっている。

だがこれに先立ち、青山真治はこうも記している。

〔…〕トンネルにあるのは〈匿名性〉であり〈交通〉である。時間が、空間が、ヒーローが、ヒロインが、無名の闇をすり抜けて、こちら側からあちら側へ、またあちら側からこちら側へと〈交通〉する。だが本来、映画にあちら側もこちら側もない。一枚の平たいスクリーンには奥などない。だからそれは幻想であり錯覚だ。あちら側にこちら側とは違う時空が広がっているわけではない。あちら側に待っているのはこちら側の反復である。そのことをレオス・カラックスはよくわかっている。それこそがトンネルという外であると同時に内であり、表と裏、入口と出口の別を欠いた建築というものだ。*7

翻って、「トンネル」を出るたびに訪れる『旅と日々』の「驚き」*8は、それがいかに魅力的に組織されていようとも、基本的に演出家による先回りと待ち伏せ――典型的にはいわゆる「待ちポジ」――の産物である。ひと足先に「あちら側に待っている」同作の演出家は、トンネルの「入口と出口の別」、すなわち「あちら側にこちら側とは違う時空が広がっている」ことに賭けているように見えるのだ。無責任な想像にすぎないが、青山真治――および青山真治を経由したレオス・カラックス――なら「それは幻想であり錯覚だ」と応じるのではないかと思う。

「映画こそがトンネルである」という文言を含む2つ上の引用箇所は、『われ映画を発見せり』の321ページに印字されている。奇しくも命日の日付と同じ数字が振られたページである。

(No.0021)

*1:青山真治「映画の地理学:2 交通について」『10+1』No.19、INAX出版、2000年3月、36ページ。国立国会図書館デジタルコレクション(2025年12月アクセス)。 https://dl.ndl.go.jp/pid/1855171

*2:廣瀬純「「映画とは地理である」『旅と日々』が実践する「驚き」の科学とは? 三宅唱監督作品の魅力を細部から紐解く。考察レビュー」映画チャンネル、2025年11月26日。

*3:各回のタイトルは以下のページに載っている。

*4:連載記事のうち、書籍刊行後に発表された最終回の「8 田村正毅試論」は収録されていない。

*5:青山「2 交通について」35ページ。

*6:同上。なお、『冷たい血』以降の青山真治作品のうちで例外的にトンネルを画面に捉え、形態の近い洞窟を主要な環境の1つとして用いてもいる『こおろぎ』(2006年)を、三宅唱は日本映画チャンネルのための「旅の(ような)映画」のセレクションに含めている。

*7:同34〜35ページ。

*8:三宅唱インタビュー どう軽やかになるか」梅本健司取材・構成、NOBODY編集部、2025年11月。 https://www.nobodymag.com/interview/tabitohibi/2-2.html

D・W・グリフィス『大疑問』の奇妙なインタータイトル

D・W・グリフィス『大疑問』(The Greatest Question、1919年)には奇妙なインタータイトルがある*1。映画の前半、貧しい一家に身を寄せている孤児のリリアン・ギッシュが、一家の次男のロバート・ハロンと無邪気に遊んでいる。2人を捉えた超ロング・ショットのあと、下のようなタイトル・カードが現れる。

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And when she was gone, it was thus that he always remembered her.
そして彼女がいなくなってしまったとき、彼がいつも思い出したのはこの姿だった。

田舎道を歩く2人の背中を捉えたロング・ショットがこれに続き、画面はフェイドアウトで暗転するのだが、このインタータイトルはほかと明らかに位相が異なっている。台詞を除いて基本的に名詞句のみか現在時制の文の形を取る本作のインタータイトルの中で、この1枚だけは遠い未来に視点が飛んでいるからだ。画面上の出来事が唐突に回顧の対象となるだけでなく、「彼女がいなくなってしまった」という映画がまだ語っていない――そして最後まで語ることのない*2――出来事が先に明かされ、その回顧の行為自体も過去形で書かれている。

このインタータイトルを、トム・ガニングは以下のように分析する。

それは実質的に、このショットを1つの記憶へと唐突に変貌させる。たしかに物語の後段でジミー〔ロバート・ハロン〕とネリー〔リリアン・ギッシュ〕が離れ離れになるところを指している可能性もあるが、その伏線にしては過剰なものに思われる。物語上の予告という以上に、このインタータイトルはグリフィスの牧歌的な映画作りの本質を、のちの経験や喪失のフィルターを通して見た無邪気さや奔放さに関する感覚を表しているのだと、私には思われる。*3

この映画が最後に見せるのは仲睦まじい様子のリリアン・ギッシュとロバート・ハロンであり、一家は裕福な暮らしを手に入れている。語りの順序の上では幸福な結末が用意されているが、グリフィスがその1時間も前に差し込んだノスタルジックな視点は語りに亀裂を走らせ、結末の幸福をいずれは過ぎゆくものとしてあらかじめ位置づけている。

(No.0020)

*1:問題のタイトルは18分20秒あたりに出てくる。

*2:リリアン・ギッシュはこのあと近所の家で住み込みの仕事を始めることになるため、その間の離別を指して「いなくなってしまった」としていると解釈できないこともないが、次の引用箇所でトム・ガニングも述べているようにやや無理がある。一家の住居と住み込み先はひとっ走りすればすぐに着く距離にあり、2人が会えずに互いを思い合うような描写も見られない。

*3:Tom Gunning. “The Greatest Question.” The Griffith Project, Volume 10: Films Produced in 1919–46. British Film Institute. 2006. Page 49.