アキ・カウリスマキ『枯れ葉』または暴力の追放

取るに足らないバイオレンス映画を作っては自分の評価を怪しくしてきた私ですが、無意味でバカげた犯罪である戦争の全てに嫌気がさして、ついに人類に未来をもたらすかもしれないテーマ、すなわち愛を求める心、連帯、希望、そして他人や自然といった全ての生きるものと死んだものへの敬意、そんなことを物語として描くことにしました。それこそが語るに足るものだという前提で。

アキ・カウリスマキ監督からのメッセージ」より

以下、アキ・カウリスマキ監督による『枯れ葉』(2023年)の暴力の位相について、『希望のかなた』(2017年)など他のカウリスマキ作品と比べながら書き記す*1。下の写真はトークショーのついた先行上映の際に撮ったもので、カラフルなアルマ・ポウスティと白と黒だけの松重豊の対比もフラッシュで出た変な影も何となくよい。

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『枯れ葉』は前作『希望のかなた』で引退を宣言していたカウリスマキの6年ぶりの復帰作である。近いタイミングで仕事を失った男女がたまたま出会い、再会と別れを何度か繰り返した末に緩やかに結ばれて終わる。

『枯れ葉』が遵守する鉄則のひとつに、暴力は画面の外にとどめて音声としてのみ示すという方針がある*2。アルマ・ポウスティの自宅にはラジオしかなく、キャスターの声がウクライナ戦争の模様を何度も描写する。悪事に手を染めていた店主は警察からの逃走を試みて失敗したようだが、その様子は見物人の映っている間に画面外から聞こえてくる殴打音やうめき声から推察されるだけである。ユッシ・ヴァタネンが事故で重傷を負うのも彼がフレームを外れた後であり、無人の画面に電車と衝突する音が聞こえる。

これはたびたび画面の真ん中に暴力をとらえた『希望のかなた』と対照的である。シリア難民である主人公は中盤で初対面の飲食店オーナーと殴り合うし、夜道でリンチに遭いかけたり、終盤ではナイフで刺されて負傷したりもする。爆撃されるシリアの様子がテレビ映像として映し出され*3、それを眺める人々の顔と交互に編集される場面もある。

さらに、『枯れ葉』もその系譜に位置づけられる『パラダイスの夕暮れ』(1986年)、『真夜中の虹』(1988年)、『マッチ工場の少女』(1990年)の「労働者三部作」*4でも暴力は視覚的に明示されていた。『パラダイスの夕暮れ』の終盤では主人公のマッティ・ペロンパーが夜道で二人組に襲われるし、『真夜中の虹』でもペロンパーはパスポートの偽造業者にナイフで刺され、主人公のトゥロ・パヤラがその業者をまとめて銃殺する。

『マッチ工場の少女』だけはやや異なる方針が選ばれている。家のテレビが天安門事件の映像を繰り返し放映しているのに加え、主人公のカティ・オウティネンが殺鼠剤を用いて複数の殺人を犯すが、犯したことになっている毒殺の様子は明示されないからである。殺鼠剤の混ざった飲み物が口にされると画面はフェードアウトし、毒の効果が出るのを待たずに場面が転換する。あるいは、画面の左へ振り向く主人公に続き、その視線の先の景色ではなく向きを変えた後の主人公の顔を正面に回ってとらえた映像を繋ぐパターンも見られる。フェードアウト(これは他のカウリスマキ作品でも多用される)や見た目の排除は殺人の前の場面でも使われており、同じ手法が死者や暴力の顛末を画面の外に押しやっている。

『枯れ葉』のカウリスマキは、暴力の画面からの排除を(テレビをラジオで置き換えることで)より徹底しながら『マッチ工場の少女』に回帰し、そこに連帯への希望を添えたと見てよいかもしれないし、暴力との関係における新しい位置を携えて戻ってきたというべきかもしれない。いずれにしても、作中でも言及のあるウクライナ戦争を経て6年ぶりに復帰した彼の動機は、そのあたりにもあったのではないかと思われる。監督のメッセージとされる文章が自身の「バイオレンス映画」を引き合いに始まるのも、その観点から理解できるだろう。

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*1:主題から外れる話を先に書き留めておく。アルマ・ポウスティが自宅でユッシ・ヴァタネンと食事をする際、アペリティフ(食前酒)とディジェスティフ(食後酒)をめぐるコミカルなやり取りが交わされる。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『不安は魂を食いつくす』(1974年)の一場面と同様に、アペリティフは労働者階級になじみのない言葉として使われており、カウリスマキがベストテンに同作を含めたことがあることからも影響関係がうかがえる。

ファスビンダーにおいては高級飲食店にやってきた男女がともに意味を知らずに(意地の悪い店員の導きで)アペリティフを注文していたが、『枯れ葉』では自宅でアペリティフを用意したポウスティがヴァタネンにその意味を説明してやる。ともに労働者である2人の出自の違いが示唆されており、ポウスティの演じるアンサという人物は、酒飲みの父の死後に急激に生活が苦しくなったという設定があるのかもしれない。

*2:ただし、唯一の例外はジム・ジャームッシュ『デッド・ドント・ダイ』(2019年)の終盤から引用される対ゾンビ戦である。被弾するゾンビが映されるはずのタイミングで客席のアルマ・ポウスティとユッシ・ヴァタネンに切り返される。

*3:新しさを価値として刹那的に消費されるニュースの断片を映画に取り込むことで延命させる手法は、後述する『マッチ工場の少女』(1990年)で使われ始める――「1980年代後半に、中国・天安門のニュース映像を自分の映画に入れれば映像を永遠に残せると気づきました」(下の動画の14分40秒あたり)。

*4:イベントレポート記事には載っていないものの、松重豊はこれを「失業三部作」と呼んでいた。

『枯れ葉』に限らない余談だが、松重は撮影をワンテイクで済ませるカウリスマキの方針に北野武の現場を連想していた。北野映画の俳優は(おっさんオールスターの趣のある近作では特に)それぞれ好き放題の本気をぶつけ合っている感じがするが、カウリスマキ映画の登場人物は短い時間で明らかにカウリスマキ映画の登場人物と分かる佇まいや台詞回しをしている。事前にどういう演出をすると俳優はワンテイクでカウリスマキ化するのだろうか。