再録「ジョン・フォード『駅馬車』の顔について」

*1ジョン・フォード監督による1939年の西部劇映画『駅馬車』(原題 Stagecoach)を再見した。3回目でもやはり面白かったが、ちょっと気になったことを簡単に書き留めた。映画はYouTubeでも見られる。

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駅馬車』は御者を含め駅馬車に乗り合わせた9人を中心に展開する。バートン・チャーチルというカナダ人の俳優がそのうちの1人の銀行経営者を演じているが、ジョン・ウェイン以外の登場人物を紹介していく同作の冒頭で、チャーチルは奇妙な扱いを受けている。まったく同じショットが2度現れるのだ。

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というのも、この顔がまったく同じ状態で二重に利用されている。1度目は顧客から大金を預かった直後の5分30秒あたり、2度目は妻を買い物に見送った直後の9分25秒あたりである。これはいったい何なのか。

彼が罪人であることを正しく暗示する後ろの十字の影と相まってかなり印象的(3回目でやっと重複に気づいたので実はその程度なのかもしれないが)なショットだが、時間のスムーズな流れを妨げるからふつう別のタイミングで同じ映像を使うことは(回想などの例外を除けば)しないものだ。どうしてそこまでしてこの顔——この人の顔、というだけではなくこの瞬間のこの顔——を強調しなければならなかったのか。

賭博師を演じるジョン・キャラダインの細長い顔は強烈だし、酒売りのドナルド・ミークは1度見れば忘れられない悲しげな愛嬌を漂わせている。医者のトーマス・ミッチェルの飲んだくれ姿も御者のアンディ・ディヴァインのかすれ声もきわめて覚えやすい。確かに彼らに比べれば、バートン・チャーチルの顔はいまいち印象に残りにくい感じもある。

だが、それならクロースアップを複数撮って入れ込めばよいわけで、同じショットを重ねて使う必要はない。ごく乱暴に想像すれば、撮り終えてから試写か何かでチャーチルの顔だけ覚えにくいという声があがり、手持ちの素材から引っ張り出してきてえいやと使ったとかいうことかもしれないが、真相を調べるそぶりすら見せずに書いて満足して寝る。

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*1:この記事は2023年4月にnoteで書いた文章をもとにしている。

お辞儀コメディ『淑女と髯』について

国立映画アーカイブで1931年の小津安二郎作品『淑女と髯』を見た。岡田時彦が「髯」の男(生やしたり剃ったり付けたりする)を演じ、川崎弘子、伊達里子、飯塚敏子らの「淑女」たちと関係したりしなかったりするサイレント・コメディである。しばらく劇場での上映はなさそうだが、U-NEXTで配信されているほか、YouTubeでも全編が見られてしまうのでリンクを載せてみる。

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この映画の登場人物たちはとにかくお辞儀をする。冒頭の剣道の場面では対戦相手どうしがたびたび頭を下げ合うし、路上の場面でも強盗にあいかけていた川崎弘子は救いに現れた岡田時彦とお辞儀を交わす。伊達里子率いる強盗の一味に対しても、岡田はお辞儀で茶化して去っていく。

ここまでなら日本のサイレント映画においてはよくあることかもしれない。ありとあらゆる挨拶のたぐいを言葉なしで自然に見せてしまえるお辞儀ほど便利なものはないからである。だが、次の誕生会の場面以降、お辞儀が使い勝手のよさにとどまらない活躍ぶりを見せ始める。

 

後期の小津作品において、同じ部屋の中で繰り広げられる場面の編集は、切り返しを除けば人物が腰を下ろす/立ち上がる動作をきっかけにサイズを変更するアクションつなぎに限られる、といえそうである*1。これらの人物の上下動は発生のたびにほぼ必ず次のショットを呼び込み、場面のリズムを作り出している。

一方、監督デビューの4年後に作られた『淑女と髯』において、編集の契機としての腰を下ろす/立ち上がる動作はそれなりの頻度で無視されている。インタータイトルが挿入されるために違う編集原理が要請されるのかもしれないが、人物のフル・ショットが腰を下ろす/立ち上がる動作を持続のうちにとらえ切ってしまうことがたびたびあるのだ。

代わりに(?)腰を下ろす/立ち上がる動作と同程度の頻度でアクションつなぎを呼び込んでいるのが、人物のお辞儀である。誕生会に遅れてやってきた岡田時彦は女性たちにお辞儀をするが、この瞬間にパーティに参加する全員をまとめてとらえたグループ・ショットは岡田のミディアム・ショットへと接続される。髯面を理由に岡田を歓迎しない女性たちは悪巧みを思いつき、岡田を取り囲んでお辞儀をする。6人が一斉に行うこの不気味なお辞儀も、背中からのフル・ショットを斜め前からのミディアム・ショット(人数が多いので全員は収まっていない)へと橋渡しする役目を担っている。

ほかにも複数のお辞儀つなぎが見られるが、すべて挙げてもしかたがないのでこのあたりにしておく。重要なのは、基本的に岡田時彦が誰と出会ってもにこやかなお辞儀を交わしていることである。礼を重んじる剣道選手がお辞儀を生業とするホテルマンに転身するのも必然的に思える。

 

岡田時彦のお辞儀青年ぶりを突き崩すのが「不良モダンガール」伊達里子である。伊達は髯を剃ってホテルマンと化した岡田に悪戯を仕掛けて誘い出すが、岡田のほうは顔をしかめて浅すぎる会釈をし、そのお辞儀が交流の端緒にならないうちにあろうことか後ろを向いてしまう。このとき岡田はフレームからほとんど外れ、画面の左端に右手を見せるだけであり、数秒にわたるほぼ無人の画面は異様な気味悪さを放っている(しばらくして白い物体が投げ込まれ、遡及的にこの空間に説明が与えられる)。

その晩、岡田時彦は誘いに応じて伊達里子の前に現れると、伊達を自宅アパートへ連れていく。岡田は終始しかめ面であり、伊達とのあいだにお辞儀の関係が成立する気配はない。母と兄を連れてアポなしで現れる飯塚敏子――最後に顔を合わせた際は髯を剃った岡田とお辞儀の関係を結べていた――も、伊達がいるせいで岡田とお辞儀を交わすことなく踵を返さざるをえない。

翌朝アパートを訪れる川崎弘子はその点で最強である。戸口に顔を出した伊達里子には動揺を見せるが、すぐに気を取り直してお辞儀を交わすので、川崎の勝利は「私…確信してゐますから…」の台詞を待たずにここで確信される(偉い!!)。

川崎のお辞儀力は伊達を改心させ、去り際の伊達は晴れ晴れしい表情で「さよなら!」と口を動かしてお辞儀をする。と同時に、伊達のミディアム・ショットは室内の3人をとらえた引きのショットへつながれ、カメラは幸福にも成立がかなったお辞儀の関係を的確にとらえることになる。アパートの廊下の伊達もドア口で見送る川崎とお辞儀を交わし、再びアクションつなぎを呼び込むだろう。

窓越しに交わされる最後のお辞儀が胸を打つのは、お辞儀コメディを締めくくるにふさわしい美しいお辞儀だからである。去っていく伊達里子の振り上げた手が最後のアクションつなぎを招き入れ、見送る2人とバーバーズ・ポールを順にとらえて映画は終わる。

だが然し――
剃っても剃っても生へるのは髯である
アブラハムリンカーン

 

最後に、鑑賞後にホールで見つけた知人ととんかつを食べながら調査したところ、岡田時彦のアパートの壁にかかるポスターは『悪漢の唄』という邦題をもつ映画のものだと分かった。原題は The Rogue Song で、1930年公開のミュージカル映画だとWikipediaに書いてある。たびたびポスターに読める通り監督は "Lionel Barrymore" であり、MGM初の "ALL TALKING" かつ全編テクニカラーの映画として売り出されたようである。

同作はサウンドトラックだけが全編現存しているらしく、断片的なフィルムと静止画を組み合わせた復元版がYouTubeに上がっていた。『淑女と髯』の前年にアメリカで公開されたこの映画を当時の小津安二郎が見ていたのか、またなぜそのポスターが選ばれたのかは調べていない。

youtu.be

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*1:どの映画だったか玄関先でお辞儀のアクションつなぎを見たような気もするが、とりあえず勢いでこう書いておく。

『Flip-Up Tonic』について

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第45回ぴあフィルムフェスティバルPFFアワードにて、昨年サークルで作った短編映画『Flip-Up Tonic』を入選作品に含めていただけることになりました。制作に関わってくれた皆様、改めて貴重な時間をありがとうございました。誰に向けられているのだかよく分からない文章をこの作品について書いたので、映画祭を前に晒してみようと思います。


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まず概要ですが、映画祭に関わるどなたかが「スリリングな事務会話サスペンス!」とか「人間とアンドロイドをめぐるハイテンポな会話劇サスペンス」という見出しとともに以下の紹介文を書いてくださいました。(少なくとも)サスペンスとしては失敗に終わっているように思いますが、こういうあらすじで進んでいくスタンダード・サイズの白黒映画です。

人型アンドロイド「リーチャー」を巡る被験者募集に応募した大学生の多良野。実験中、多良野はリーチャーに逃げられ落ち込むが、実験にはある秘密が隠されていた。事務的な会話から謎が広がっていくスリリングな展開に注目。

6〜7月に行われた高円寺国際学生映画祭というイベント(ここで初めてスクリーンにかけていただきました)のパンフレットに載せていただいた拙文も転載します。昨年秋の撮影時からは考え方が変わった節があり、当時ニヤニヤしながら詰め込んだ大量の小ネタを嬉々として説明する気にはなれないのですが、もしご覧いただけるならこの程度でも多少の補助線になるかもしれません。

アナグラムが新たな意味をなすよう限られた要素を並べ替える遊びだとすれば、『Flip-Up Tonic』は暴走するアナグラムの産物に他ならない。一連の出来事はドアや鏡や窓によって解体され、トンネルを抜け出て棺桶へかえる循環が捏造される。そこに人間はいない。

主にはSFっぽいことを一切せずにSF映画を作ることと、時系列をごちゃごちゃと操作することが主にやりたかったことでした(PFFのパンフレットにもう少し詳しく書いたものを載せていただけるはずです)。どのくらいの割合の方にウケるかが未知数なのですが、人によってはひたすら退屈するだけかもしれません。あと2回目の視聴くらいがいちばん面白いのではないかとも思っていますが、これももう見すぎてよく分かりません。

 

さっそく詳細な批評を載せてくださった方がいらっしゃいます。全体の作りを整理したうえで、「滑舌」という何度も見返している者の意識にはのぼらない角度から分析をしてくださっています。力不足により偶発的に取り込まれてしまったような要素まで汲み取ってくださり、大変刺激の多い文章でした。改めて感謝にたえません。

もともと批評のようなものに憧れを持ち、引き出されるべき分析の側から逆算して映画を作ったら面白いのではないかという浅はかな思いつきから制作に手を出した人間なので、自作をこのように迎えていただけると大喜びしてしまいます。ここまでの時間と労力を割いてくださると申し訳ない気もしてくるのですが、幸運にも多くの方にの目に触れる機会をいただけたのでこの先数週間が楽しみです。制作から1年近くを経て他人の作品のふりができる程度には距離を取れるようになったいま、ご覧いただいた方とこれは一体何なのだろうと話ができたら幸いに思います。

 

『Flip-Up Tonic』は他の2作とともにコンペティション部門Fプログラムに含まれており、国立映画アーカイブで9/9㈯ 11:30と9/15㈮ 14:30の2回上映があるほか、U-NEXTなどでも配信される予定です。もしご都合がついて気が向くようなことがあればぜひご笑覧ください。

お時間と気分が許せばご感想やお叱りの言葉をいただけるとなお嬉しいです。上映時は会場におりますので、ご遠慮なくお声がけください。