お辞儀コメディ『淑女と髯』について

国立映画アーカイブで1931年の小津安二郎作品『淑女と髯』を見た。岡田時彦が「髯」の男(生やしたり剃ったり付けたりする)を演じ、川崎弘子、伊達里子、飯塚敏子らの「淑女」たちと関係したりしなかったりするサイレント・コメディである。しばらく劇場での上映はなさそうだが、U-NEXTで配信されているほか、YouTubeでも全編が見られてしまうのでリンクを載せてみる。

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この映画の登場人物たちはとにかくお辞儀をする。冒頭の剣道の場面では対戦相手どうしがたびたび頭を下げ合うし、路上の場面でも強盗にあいかけていた川崎弘子は救いに現れた岡田時彦とお辞儀を交わす。伊達里子率いる強盗の一味に対しても、岡田はお辞儀で茶化して去っていく。

ここまでなら日本のサイレント映画においてはよくあることかもしれない。ありとあらゆる挨拶のたぐいを言葉なしで自然に見せてしまえるお辞儀ほど便利なものはないからである。だが、次の誕生会の場面以降、お辞儀が使い勝手のよさにとどまらない活躍ぶりを見せ始める。

 

後期の小津作品において、同じ部屋の中で繰り広げられる場面の編集は、切り返しを除けば人物が腰を下ろす/立ち上がる動作をきっかけにサイズを変更するアクションつなぎに限られる、といえそうである*1。これらの人物の上下動は発生のたびにほぼ必ず次のショットを呼び込み、場面のリズムを作り出している。

一方、監督デビューの4年後に作られた『淑女と髯』において、編集の契機としての腰を下ろす/立ち上がる動作はそれなりの頻度で無視されている。インタータイトルが挿入されるために違う編集原理が要請されるのかもしれないが、人物のフル・ショットが腰を下ろす/立ち上がる動作を持続のうちにとらえ切ってしまうことがたびたびあるのだ。

代わりに(?)腰を下ろす/立ち上がる動作と同程度の頻度でアクションつなぎを呼び込んでいるのが、人物のお辞儀である。誕生会に遅れてやってきた岡田時彦は女性たちにお辞儀をするが、この瞬間にパーティに参加する全員をまとめてとらえたグループ・ショットは岡田のミディアム・ショットへと接続される。髯面を理由に岡田を歓迎しない女性たちは悪巧みを思いつき、岡田を取り囲んでお辞儀をする。6人が一斉に行うこの不気味なお辞儀も、背中からのフル・ショットを斜め前からのミディアム・ショット(人数が多いので全員は収まっていない)へと橋渡しする役目を担っている。

ほかにも複数のお辞儀つなぎが見られるが、すべて挙げてもしかたがないのでこのあたりにしておく。重要なのは、基本的に岡田時彦が誰と出会ってもにこやかなお辞儀を交わしていることである。礼を重んじる剣道選手がお辞儀を生業とするホテルマンに転身するのも必然的に思える。

 

岡田時彦のお辞儀青年ぶりを突き崩すのが「不良モダンガール」伊達里子である。伊達は髯を剃ってホテルマンと化した岡田に悪戯を仕掛けて誘い出すが、岡田のほうは顔をしかめて浅すぎる会釈をし、そのお辞儀が交流の端緒にならないうちにあろうことか後ろを向いてしまう。このとき岡田はフレームからほとんど外れ、画面の左端に右手を見せるだけであり、数秒にわたるほぼ無人の画面は異様な気味悪さを放っている(しばらくして白い物体が投げ込まれ、遡及的にこの空間に説明が与えられる)。

その晩、岡田時彦は誘いに応じて伊達里子の前に現れると、伊達を自宅アパートへ連れていく。岡田は終始しかめ面であり、伊達とのあいだにお辞儀の関係が成立する気配はない。母と兄を連れてアポなしで現れる飯塚敏子――最後に顔を合わせた際は髯を剃った岡田とお辞儀の関係を結べていた――も、伊達がいるせいで岡田とお辞儀を交わすことなく踵を返さざるをえない。

翌朝アパートを訪れる川崎弘子はその点で最強である。戸口に顔を出した伊達里子には動揺を見せるが、すぐに気を取り直してお辞儀を交わすので、川崎の勝利は「私…確信してゐますから…」の台詞を待たずにここで確信される(偉い!!)。

川崎のお辞儀力は伊達を改心させ、去り際の伊達は晴れ晴れしい表情で「さよなら!」と口を動かしてお辞儀をする。と同時に、伊達のミディアム・ショットは室内の3人をとらえた引きのショットへつながれ、カメラは幸福にも成立がかなったお辞儀の関係を的確にとらえることになる。アパートの廊下の伊達もドア口で見送る川崎とお辞儀を交わし、再びアクションつなぎを呼び込むだろう。

窓越しに交わされる最後のお辞儀が胸を打つのは、お辞儀コメディを締めくくるにふさわしい美しいお辞儀だからである。去っていく伊達里子の振り上げた手が最後のアクションつなぎを招き入れ、見送る2人とバーバーズ・ポールを順にとらえて映画は終わる。

だが然し――
剃っても剃っても生へるのは髯である
アブラハムリンカーン

 

最後に、鑑賞後にホールで見つけた知人ととんかつを食べながら調査したところ、岡田時彦のアパートの壁にかかるポスターは『悪漢の唄』という邦題をもつ映画のものだと分かった。原題は The Rogue Song で、1930年公開のミュージカル映画だとWikipediaに書いてある。たびたびポスターに読める通り監督は "Lionel Barrymore" であり、MGM初の "ALL TALKING" かつ全編テクニカラーの映画として売り出されたようである。

同作はサウンドトラックだけが全編現存しているらしく、断片的なフィルムと静止画を組み合わせた復元版がYouTubeに上がっていた。『淑女と髯』の前年にアメリカで公開されたこの映画を当時の小津安二郎が見ていたのか、またなぜそのポスターが選ばれたのかは調べていない。

youtu.be

No.0001

*1:どの映画だったか玄関先でお辞儀のアクションつなぎを見たような気もするが、とりあえず勢いでこう書いておく。