『トラップ』(2024年、字幕は松浦美奈*1)はM・ナイト・シャマラン(以下、パパシャマラン)の最新監督作である。パパシャマランの娘でシンガーソングライターのサレカ・シャマラン(以下、娘シャマラン)が、若者を熱狂させる大スター歌手の役で出演している。
娘シャマランを(おそらくは現実の本人を超えた)大スター歌手として写し取るという難題に、パパシャマランはいかにして取り組んだのか。親バカ的な愛情や妄信などではなく、距離をめぐる機械的な手続きによってである、というのが以下で示す見立てである。これを「迫りくるパパシャマラン」現象と名付け、見るに明らかすぎる気もする展開ぶりを書き出してみる*2。パパシャマランとは作中人物を操る演出家であり、映画のカメラであり、娘シャマランのおじを演じる俳優である。
娘シャマランは映画の最初のショットでTシャツにプリントされた顔として導入される。本人が初めて登場する*3のは、大勢の追っかけファンに見下ろされながらバスを降り、裏口からライヴ会場に入っていくときである。ここで娘シャマランを捉えたショットはどれもロング・ショット(人物が遠くに小さく見えるショット)であり、このカメラ=パパシャマランとの距離は30分以上にわたって堅持されることになる。
親子を演じるジョシュ・ハートネットとアリエル・ドノヒューがライヴ会場の席に到着する。パフォーマンスが始まると、背後のモニターが娘シャマランを大写しにすることはあれ、映画のカメラ=パパシャマランは律儀に娘シャマランとの距離を保っている。舞台からある程度離れた席に陣取った親子*4のもとにとどまることで、娘シャマランを正面からのロング・ショットでしか撮れないという制約を、パパシャマランは自らに課しているのだ。合間でハートネットがなんやかんや画策しているが無視しておく。
転機は俳優パパシャマランの登場である。わざわざ娘シャマランの「母の兄弟」を名乗ることで父性を隠そうとするパパシャマランは、任意の観客を娘シャマランに接近させる権限を握っている。ただちに作中人物どうしの距離が縮まるわけではないが、ハートネットが娘シャマランへの接近というパパシャマランのプロジェクトに明確に同調し始めた直後、初めて舞台上の娘シャマランがフル・ショット(全身がちょうど映るくらいのショット)で映し出される。
パパシャマランの案内で、作中の親子が娘シャマランの舞台へ歩いて近づく。カメラ=パパシャマランはステージ裏から娘シャマランの後ろ姿を捉えるが、まだロング・ショットやフル・ショット以上の接近を自らに許すことはない。ドノヒューが壇上に招かれてもカメラはハートネットとともに舞台裏にとどまり、ロング・ショットの距離を保って接近の瞬間を先送りにする。
ドノヒューは舞台裏のハートネットのもとへ戻っている。いったんステージを去る娘シャマランを追って親子が移動し、カメラ=パパシャマランが舞台袖の娘シャマランをロング・ショットで捉えると、娘シャマランがこちらへ向かって歩き始める。水を飲んでから次のゲスト歌手を紹介するころまでに娘シャマランはミディアム・ショット(腰から上くらいのショット)に収まっており、これまでで最大のサイズを更新している。
ライヴの終幕後、親子は楽屋近くの通路にいる。ゲスト歌手のスコット・メスカディは楽屋の娘シャマランと言葉を交わしてから出口へ向かうが、その道中でフル・ショットからクロースアップ(肩から上くらいのショット)まで接近し、娘シャマランの動線を予告して去っていく。別の部屋に顔を出していた娘シャマランが同じ通路を(逆向きに)歩いてくることで、ついに娘シャマランのクロースアップが解禁され、パパシャマランは娘シャマランの顔を中央に捉えたクロースアップを乱用し始める。
いろいろあって娘シャマランがハートネット邸の便所に駆け込み、鍵をかける。ここでパパシャマランはハートネットを文字通り見捨てて――画面外の音に追いやって――娘シャマランの立てこもりに便乗し、狭い空間で娘シャマランのクロースアップをほしいままにする。スマートフォンでライヴ配信を行う娘シャマランは顔の一部がはみ出すビッグ・クロースアップで執拗に大写しにされる。この段階で娘シャマランのクロースアップが飽和に至り、パパシャマランは晴れて計画を完遂するのである*5。
『トラップ』のパパシャマランはここまで1時間以上にわたり、娘シャマランへの接近というプロジェクトだけで映画を引っ張ってきたことになる。本筋の陰を伏流するこのサブテクストは、熱狂する観客に相対するロング・ショットによってかろうじて担保されていた娘シャマランの(かりそめの)スター性を、迫りくるパパシャマランが解体していく過程である。実際、他人の家の便所に閉じこめられ、半泣きで(他人のためとはいえ)助けを求める超クロースアップほどスター性から遠いものはない。パパシャマランが採用したのは、段階を踏んで接近していくなかで遡及的かつ相対的にスターとしての娘シャマランを仮構する、厳格な距離の戦略にほかならない。
ここまではコンサート・ヴィデオなりTV映像なりにおける距離の融解の堕落ぶりを映画の名において拒絶する力作なのではないか、などと適当なことを思いながら身を乗り出して楽しんでしまった。残りはいつも通りにパパシャマランのお片付けモードである。続編があるとすれば最後にロング・ショットで送り出される3人との距離を詰め直すスリラーになるだろうが、パパシャマランが娘シャマラン以外にここまでの執心を示すとは思われない。
No.0010
*1:監督や出演者と同時に字幕翻訳者の名前を書き記す粘着質な運動を始めようと思う。関心の所在は「誤訳される暗闇、または「官能的字幕」のほうへ - 映画駄文集」に記した。
*2:1回見ただけで適当なことを書いているため、あとで記憶違いが見つかったら黙って直します。
*3:以下ではモニター越しの映像やプリントされた画像として現れる娘シャマランは無視し、娘シャマラン本体とそのサイズにのみ注目する。
*4:周囲の観客に比べて身長が低いドノヒューにはおそらく前の観客の後ろ姿と舞台照明の変化とモニターの上半分しか見えていない(のにあんなに盛り上がっている)から、親子というより単に親とするべきかもしれない。
*5:パパシャマランではなくハートネットの役に注目すれば、娘シャマランの肩に人差し指を触れた瞬間に距離ゼロが達成されることになる。