誤訳される暗闇、または「官能的字幕」のほうへ

私たちは皆、多かれ少なかれ、翻訳者を殺してやろうと思いながら映画館を後にしたことがあるに違いない。

――阿部・マーク・ノーネス

① 堕落的字幕*1

比較的新しい記憶の限り、映画館で初めて字幕の存在自体に憤ったのはクリント・イーストウッド『クライ・マッチョ』(2021年、字幕は松浦美奈)を見たときだ。誤訳や誤字のせいなどではなく、イーストウッドを包む暗闇を過剰に白い字幕が煌々と照らしていたことが理由だった。顔に刻まれたしわに影を呼び込むことでたびたび世界の暗部を背負い込んできたイーストウッドが、この映画では闇と穏やかな和解に至っているかに見える(シルエットが大地と一体化する夕刻のロング・ショット)。90歳を超えたそのご老体は、当座の寝床としている教会の暗がりでカウボーイ・ハットを顔に乗せ、メキシコの少年に自らの過去を語る。何重にも美しいはずのこの場面だが、セリフが発せられるたびに画面では強烈な白文字が光を放っていた。字幕の出没による明るさの変化に合わせて瞳孔が忙しなく開閉し、限られた陰影の中で見るべきものを見落とさせられている気がした*2

暗い映像に声がかかる字幕付きの映画は全部そうだから、同様の例は枚挙にいとまがないが、この数週間で見た小田香『GAMA』(2023年)『Underground』(2024年)やマティ・ディオップ『ダホメ』(2024年)はどれも特に字幕の無遠慮な明るさが目についた。前の2作は沖縄戦時に住民の避難場所となったガマ(洞窟)が主要な舞台であり、中を案内する男性は「暗闇体験」として語りの途中に電灯を消す時間を設けている。暗闇で語りに傾聴することが趣旨のはずだが、どちらの作品でも明るいときと同様の白さで光るArialフォントの英語字幕が「体験」を不可能にしていた*3。『ダホメ』では、2021年にフランスからベナンへ返還された美術品のひとつが声を与えられ、主として黒画面に重ねてフォン語*4の語りを響かせる。木の箱にしまわれながら「暗くて何も見えない」というようなことを言うのだが、このときも日本語と英語の白い字幕が場内を照らしていた。

いずれの場合も、字幕が真っ白い光源として輝いている空間が、音声および当の明るい字幕によって暗闇として名指されていた。いわば字幕によって暗闇が誤訳されて・・・・・いるのだ*5

透明なフリを装って*6傍若無人に振る舞うこうした字幕を、仮に堕落的字幕と呼んでみる。業界の都合で画一化された手法に支配され、作り手にも観客にもまるで無関心な翻訳装置の謂である。

② 官能的字幕

堕落的(corrupt)字幕というのは映画研究者マーク・ノーネスの表現だ*7。字幕翻訳には慣習的なルールがある。1秒あたり4文字以内に収める、一読しただけで難なく理解できる範囲にまで(しばしば暴力的に)簡略化する、差別的な表現は脱色する、等々*8。こうした規範に忠実な型通りの字幕、「直接的、表面的、単純、曖昧さや複雑さの欠如へと向かう」*9字幕を、ノーネスは――業界の資本主義的動機に追従しているという意味で――堕落的字幕と呼んだ。

これに対置されたのがabusive(悪態的/濫用的)という形容詞だ。罵倒語などの表現は強烈な言葉で――悪態的に――訳出し、映画的テクストの要求に応じて慣習を破った手法(文字の大きさや色や位置の操作、字数制限の無視、等々)を――濫用的に――取り入れる字幕翻訳。ノーネスは、オリジナルへの「忠誠心」(fidelity)を軸とし、あらすじの伝達にとどまらず「映画内で用いられる言語が持つさまざまな聴覚的、視覚的特質にも注意を払う」*10ことの必要を主張した。

ノーネスはのちに、このペアを良識的(sensible)字幕と官能的(sensuous)字幕に呼び替えることを提案している (19) 。表現の攻撃性を弱めるとともに、ルール通りの字幕翻訳が「本質的に腐敗しているわけではない」(20) ことを加味するための修正らしい。ここでは単に好みと趣旨に合わせて「堕落的」と「官能的」の語を用いてみているが、要点は同じである。「良識的」の語が規範への「盲目的な追従を示唆している」(19) ことに変わりはなく、「官能的字幕とは映画への愛に他ならないのだから」(44) 。

③(多少でも)官能的字幕のほうへ

ノーネスは官能的字幕の特徴を、「観客を外国映画の異質性、他者性、言葉の重要性(特に、その文学性)、そして、つまるところ映画の視覚と音声に接触させる字幕」(23) と要約している。聴覚に関しては具体的に「ライム(韻)、リズム、声の大きさや力強さ、文法的構造、頭韻、声質、身体的な近さ、さらには(…)沈黙」への注目を促す一方で、字幕の視覚的様相については、「時として字幕の位置や、字体、色といった視覚的な面に手を加えることがある」ものの、そうした処理を必要とする映画はまれだろうとしている (24) 。

暗い画面に字幕が表示される事態は決してまれではない。ノーネスのリストでは字幕の「色」がかろうじて言及されるばかりだが、そこに字幕自体の明るさという側面を書き加える必要がある。それは字幕を暗がりに文字通り溶け込ませ、翻訳の介在を透明化しようとする企てではない。無様な明るさという「堕落」を「官能性」のほうへと引き寄せる「忠実」な態度である*11

No.0009

*1:この文章は最近たまたま見た映画とたまたま記憶にあった文献と生半可な知識をもとにした放言であり、理論的にも実践的にも網羅的な何かを目指したものではありません。

*2:そもそもデジタル上映の時点で闇などないと言われればぐうの音も出ない。あの左右や上下の黒く光る帯はぜひ黒布で隠してほしいと思う。特に先週のマルコ・ベロッキオ『エンリコ四世』は初めて経験する驚くべきひどさで、図のような感じだった。
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*3:そこにこそ『GAMA』と『Underground』の限界があるという立論もできそうだ(視聴覚的遊戯の素材として沖縄の「体験」を搾取するどん詰まりの「わ・れ」はたとえば『ダホメ』における「私は歩き続ける」の重唱に遠く及ばない)が、しない。

*4:この語りはハイチの作家マケンジー・オルセルMakenzy Orcelによるテキストをフォン語に翻訳したものだという。Wendy Ide. “Dahomey review – Mati Diop’s exquisite tale of repatriation”. October 2024. https://www.theguardian.com/film/2024/oct/27/dahomey-review-mati-diop-exquisite-tale-of-repatriation-atlantics

*5:この点で中島夏樹『地図になき、故郷からの声』(2021年)は興味深い試みをしていた。クルディスタンや日本に暮らすクルド人たちの歌や語りを伝えるこのドキュメンタリー映画は、黒画面と「耳を傾ける者たちよ」と訳されるクルド語の呼びかけとを冒頭から繰り返し配置している。クルド語を解さない観客は当初、暗闇を照らす白文字を読むことしかできないが、リフレインによって白文字を読み取る視覚の役割は縮小してゆき、その場に文字通り「耳を傾ける者たち」が立ち上がることになる。このとき、字幕の光る画面は明るいままで暗闇に漸近する。

*6:映画祭で見た上述の4作品については、翻訳の責任の所在を調べても何も出てこなかった。翻訳者の(虚偽の)透明化が端的に見て取れる。

*7:Markus Nornes. “Toward an Abusive Subtitling: Illuminating Cinema’s Apparatus of Translation”. 1999.(阿部・マーク・ノーネス「悪態的字幕のために:映画翻訳装置の露出」山本直樹訳、2005年。)冒頭の引用も同論文より。原文(英語)、日本語訳ともに以下のページでダウンロードでき、著名な日本語字幕の実践者の「堕落」ぶりや日本語字幕の黎明期に関する記述など、面白く読める。
https://deepblue.lib.umich.edu/handle/2027.42/90898

*8:同論文の内容に従ったが、実践者たちによる以下の文献――当然ノーネス論文は無視して書かれている――にもそれぞれ対応する記述がある。
日本映像翻訳アカデミー(桜井徹二、藤田奈緒、新楽直樹)『字幕翻訳とは何か:1枚の字幕に込められた技能と理論』2018年。

*9:マーク・ノーネス「「濫用的字幕のために」再考:視聴覚翻訳における責務の多面性について」松本弘法訳(武田珂代子編著『翻訳通訳研究の新地平:映画、ゲーム、テクノロジー、戦争、教育と翻訳通訳』晃洋書房、2017年)、10ページ。論文の日本語訳は以下のページでダウンロードできる。後半で挙げられる4つの事例が(微かな危うさも含めて)興味深い。
https://deepblue.lib.umich.edu/handle/2027.42/167621
なお、この訳ではcorruptの語が「腐敗的」と訳されている。以降、この文献からの引用は括弧内に該当ページを記すことで示した。

*10:ノーネス「悪態的字幕のために」185ページ。

*11:とはいえ、字幕翻訳者はノーネス論文くらいは読んだうえで実践をしているのかもしれないし、そうであってほしいとも思う。別に実践者を否定したいわけではないので、最後に2つの方向で擁護をしてみておく。

まず、表示の形式ではなく内容の面で「官能的」といえるような字幕の実践はすでに見られる。たとえば、作中で中心的な言語以外の発話を山括弧〈〉に入れた字幕で示す手法は比較的頻繁に使われている。さらに、フリーヌル・パルマソン『ゴッドランド/GODLAND』(2022年、字幕は古田由紀子)では、デンマーク語とアイスランド語の発話のうち後者を山括弧でくくるという方針が冒頭の字幕で表示された。イリヤ・ポヴォロツキー『グレース』(2023年、字幕は後藤美奈)では、ルビの位置に(バルカル語)というように話されている言語名を示した箇所があった。これらは従来通りの意味での翻訳を超えた試みといえる(どちらもイメージフォーラムで見た作品なのが示唆的かもしれない)。ノーネスも「従来と同じ外見の字幕の中で官能的な働きをする」(24) 試みの可能性を認めているし、目立たないだけで(あるいは見逃してしまっただけで)ほかにも試行錯誤は行われているのだろう。良心的な実践がもっと広く見られ、語られるようになれば望ましいと思う。

次に(このへんは大嘘をついている可能性があるのでお詳しい方は気が向いたらお叱りをいただけるとありがたいです)、そもそも現行の一般的なシステムで明るさの調整という選択肢があるかどうかは疑わしく、形式の上で「官能的」実践を目指すには技術的な困難が伴う可能性が考えられる。スクリーンのサイズ等に合わせて各所で調整するべく、表示する文字と表示のタイミング程度のデータしか運べない形式でやり取りが行われているのかもしれない。いずれにしてもあの無遠慮な明るさは「カネの影響力」や「一般大衆の観客を引き込もうという欲望」(19) の暴力による業界全体の「堕落」が原因だろうから、手を出せるところから働きかけてみて全体の変化に期待を寄せるほかないようにも思われる。